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カテゴリ:遠き波音
近江守は、幼名を多聞丸(たもんまる)といった。
父は傾きかけた権門の末に生まれ、長らく右兵衛督を勤めた武官であった。 母のことはよく知らない。多聞丸を産んでまもなく病で死んでしまったのだそうだ。ほっそりとした髪の豊かな人だったというが、乳飲み子だった多聞丸はその面影すら覚えていない。 母が亡くなったため、父は多聞丸を手元に引き取り、新たに買い求めた六条の屋敷に移り住んだ。 そこは、父の友人である中務大輔の屋敷の隣家だった。中務大輔は父の学問の同窓で、父より官位は低かったが律儀で勤勉な好人物であり、若い頃からずっと互いに親しく行き来していた。それで、空家だった自分の家の隣に来るよう、中務大輔が強く勧めたのである。 父はこの屋敷がすっかり気に入り、地方官として赴任していた時を除けば、三年前に他界するまでずっとこの屋敷に住んでいた。父が亡くなってからは、多聞丸の持ち物となっている。 多聞丸もまた、物心つく前に移り住んで以来、三十歳を過ぎた今も住み続けているこの屋敷を、殊(こと)のほか愛していた。 と言うより、この屋敷に連なっている隣家にまつわる思い出を愛していると言った方が良いか。 父に同行して地方へ下っている間も、多聞丸は片時もそれを忘れたことはなかった。 ![]() ↑よろしかったら、ぽちっとお願いしますm(__)m お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年10月04日 16時11分19秒
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