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カテゴリ:戦略
連合国軍総司令部(GHQ)は戦犯容疑者の中から被告をどんな基準で選んだのか。
GHQ内に、キーナンを首席検察官とした国際検察局が設立された。キーナンは、要員を年代別・分野別に分けた作業グループに配置し、被告の選定にあたらせた。作業は難航した。証拠となる政府文書の多くは、終戦直後に焼却されていたからだ。提出された木戸幸一(元内大臣)の日記や容疑者の尋問調書、関係者の証言などが、捜査のよりどころとなった。 (中略) 連合国各国の検事による検察局執行委員会は、46年(昭和21年)3月4日から会議を重ね、被告を29人に絞り込んだという。4月8日の参与検事会議で、石原莞爾、真崎甚三郎、田村浩(元俘虜(ふりょ)情報局長官)の除外が決まり、26人が残った。 石原は満州事変の首謀者だったが、当時は決定的な証拠に欠けており、逮捕リストからも漏れていた。中国の検事も、石原よりは、満州事変だけでなく日中戦争の残虐行為にも関与した板垣征四郎(陸軍大将、元第7方面軍司令官)の追及に熱心だった。当事者の一人、花谷正の手記が雑誌に公表されて満州事変の全貌(ぜんぼう)が明らかになるのは、東京裁判判決の8年後、56年(昭和31年)のことである。 陸軍の皇道派の巨頭だった真崎は、2・26事件の後、反乱幇助(ほうじょ)の疑いで憲兵隊に逮捕され、無罪判決を受けている。東京裁判では、捜査に協力的で好印象を与えたため、訴追を免れたとの見方もある。 4月13日に遅れて到着したソ連検事団は、17日の参与検事会議で被告の追加を求め、未拘禁で不起訴と合意されていた重光と梅津の2人が被告に加えられた。結局、28人が起訴された。(中略) 張作霖爆殺事件の首謀者であった河本大作、 南部仏印進駐を推進した海軍大佐の石川信吾、 対米開戦をめぐる「陸軍主戦派トリオ」と言われた参謀本部の田中新一、服部卓四郎、辻政信らも、容疑者から見逃された。 石川や辻が免責されたのは、検察側証人として連合国から重宝された元陸軍少将の田中隆吉が、海軍や参謀本部の内情にうとかったためとする見方もある。 この田中自身、第1次上海事変の謀略などに関与し、免責を疑問視する声もあった。 このほか、七三一部隊の隊長だった石井四郎は、人体実験のデータを米軍に提供する条件で、訴追を免れた。 東京裁判は46年5月3日、東京・市ヶ谷台の旧陸軍省ビルの特設法廷で始まった。判事は、戦勝国の米英仏中ソなど計11か国から各1人が任命され、オーストラリア代表のウェッブ判事が裁判長に選任された。 検察官は、米国のキーナン首席検察官ら11人で、500人近くの国際検察局のスタッフがいた。対する弁護側は、鵜沢総明、清瀬一郎ら主任弁護人、米国人弁護人と日米双方で50人を超えていた。法廷で最大の深刻な問題は、通訳の絶対的な不足だった。誤訳がしばしば生じ、被告に不利に働いたこともあったという。 48年(昭和23年)11月12日、判決が言い渡された。「A級戦犯」7人の死刑が執行された翌日の12月24日、最後まで拘禁されていた岸信介、青木一男(元大東亜相)、天羽(あもう)英二(元外務次官)ら「A級戦犯」容疑者17人全員が、起訴を免れて釈放された。 [読売新聞](2006年7月13日) __________________ 児玉氏・辻氏は使えず…米反共工作でCIA分析 【ニューヨーク=大塚隆一】米国の情報機関が東西冷戦初期、日本の戦犯容疑者や右翼を使って進めようとした反共工作や情報収集について、米中央情報局(CIA)が役に立たないケースが多かったと分析していたことがわかった。 AP通信が24日、米国立公文書館で2005~06年に解禁されたCIAの極秘文書をもとに伝えた。 それによると、CIAなどの米国の情報機関は第2次世界大戦後、右翼の大物で後にロッキード事件の被告になった児玉誉士夫氏や 戦犯容疑を免れた元陸軍参謀の辻政信氏らに接近した。 しかし、CIAの文書は 「彼らは自らの威信や利益のために情報をたびたび捏造(ねつぞう)した」 「日本の戦後は、驚くべき数の、役立たずの情報提供者を生み出した」と指摘。 工作資金を持ち逃げされたり、同じ情報が米国の複数の機関に売られたりした例もあったという。 2月26日1時14分配信 読売新聞 ☆安倍内閣にもたくさんの辻政信がいる。 幸運を祈る。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Feb 26, 2007 09:03:16 AM
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