「嗚呼 黎明は近づけり」(旧制大阪高等学校寮歌)を師匠が舞ってくださるのを初めて目の当たりにしたのは、昭和44年8月15日、日大講堂で開かれた第2回高等部総会だったと記憶しています。
35度を超す室温の会合でスピーチなさった後、最後に指揮を執ってくださいました。
夜行列車で、しかも座る席もなく姫路市から参加し、午前6時半ごろに東京駅に着いたにもかかわらず、会場では最上階でした。地方を大事にしないのか、という不満がくすぶる自分の心を、会合中も消せなかったのですが、指揮を執られた瞬間、すべて消え失せ、滂沱の涙が頬を伝い、感動に震えたことを鮮明に覚えています。
この年の夏季講習会でも、この歌は歌われました。
昭和56年11月の関西総会でも師匠は、この歌の指揮を執られました。そこにも参加させていただいていました。
一致団結して、反転攻勢の狼煙を上げる、魂のこもった歌だと思います。
「今日も元気で」は昭和43年8月の婦人部総会で発表されました。グラフに掲載されたこの総会で講演なさる師匠の写真の表情が大好きで、切り抜いて机の前の壁に高校時代、ずっと張っていました。
昭和44年に発売されたLPには2曲とも収められていて、繰り返し聴き、自らの士気を鼓舞したものです。
当時は「桜花爛漫の歌」もよく歌われました。この歌もLPに収められていました。
そして44年といえば、忘れられないのが「花の源義経」です。「驕る平家の紅旗に 立つや源氏の白い旗~」。巨大な権力に負けないぞ! との決意のみなぎる歌です。
それ以前、僕が一番好きだったのは「勝利への歌」です。昭和40年に男子部に入った時によく歌われていました。「民衆のために 世のために あふれてやまず いつまでも」「ああ 鉄壁の団結は」といった詩が好きでした。僕の隊長の居安さんは音楽隊の指揮者でもあり、会合に行くと居安さんの雄姿に接することができたことも、とてもうれしかったことです。当時は、中学校の体育館にござを敷いて会合を開いていました。会合はなかなか始まらず、何曲も何曲も演奏が繰り返され、さらに全員で何回も歌を歌ったものです。今とは隔世の感があります。
初めて指揮を執ったのが、この歌です。腕時計を外して胸のポケットに入れて、渾身の力を込めて指揮しました。そのことがうれしくて、スキップを踏みながら帰宅したのですが、腕時計はポケットから消えていました。中学校2年生の僕にとって、大変な財産をなくしたのですが、指揮した歓喜の方が大きかったことを覚えています。