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カテゴリ:中国
マヌエラこと山田妙子は、駆け落ちした大連から、男と仕事を捨て、1938年に上海にやってきた。 当時の虹口は、「長崎の田舎」のような場所で、租界へは、英語、ロシア語、フランス語など西洋の言葉が1つでもできないと、行けず、まして、住むなどとんでもないところだった。
和田妙子 『上海ラプソディー伝説の舞姫マヌエラ自伝』
マヌエラは、アメリカ人ハロルド・スミスと知り合い、そのマネージメントにより最高級ナイトクラブ『フォーレス』(新華路の北側、延安西路沿い)に出演する。 彼女は、抗日運動が高まる中、日本人であることを隠すことを強いられる。 彼女にダンスを教えたのは、ジャスタス・バスコーラ(パリの『ムーラン・ルージ』で女形ダンサーを務める)で、衣装は、エルビン・レスチーナ(ドイツにいた頃は、マレーネ・デイトリッヒなど多くの女優衣装を担当)による。 そして、『フォーレス』の音楽指揮は、オットー・ヨアヒム(ヴァイオリン奏者、1934年ヨーロッパを離れ、上海へ)で、マヌエラは彼と彼ら楽団の才能に気が付く。 緊張するマヌエラに、オットーは『タブー』の演奏アレンジで、踊りのクライマックスで、バンド全体をブレイク(停止)させ、奏者が“ウン”、“オー”の掛け声を掛けるという提案をし、それが、成功し、踊るマヌエラも快感を感じる。 オットーは、「僕たちはプロだよ。踊りの伴奏だからって手抜きはしない。」と語る。 マヌエラは、音楽ジャンルによらず、それぞれの楽器で素晴らしい表現する戦時中の上海ユダヤ人音楽家のプロ意識に接する。 彼女は、ユダヤ難民の芸術家から崇高な芸術精神を学ぶ。 それは、彼女の財産となる。 そんなマヌエラの寓所が、フランス租界だった延慶路、東湖路の交点にある。 上海に来たときは、とても、近づけなかった場所に、いつのまにか、彼女は住むことができるようになった。
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Last updated
2013.05.03 13:00:08
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