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肥田舜太郎医師の講演会に感涙
土壇場サヨコさんが肥田舜太郎医師の講演会の 報告をして下さいましたので紹介致します。 御年95歳の肥田舜太郎先生の講演会に 昨日 殿と一緒に行って来た。 1945年8月6日 28歳で広島陸軍病院で中尉だった医師。 原爆の生き証人は少なくとも もういないだろうと おっしゃった。 1945年8月6日深夜に 爆心地から6km先の戸坂村に 心臓の悪い子どもの急患があり往診に行った。 陸軍病院にいたら間違いなく死んでいただろう。 未明に子どもを診て 子供の傍に添い寝をしたが 目が覚めたのが 朝8時だった。 縁側に行き広島の方角を見たら 空に銀色のB29が1機見える。 その後は 直径700メートルの光の輪が出来た。 光の輪の下350メートルが地面で 7色の綺麗な光線が伸びると 瞬間に 白い雲が丸く立ち上った(きのこ雲) あまりの恐ろしさに立てないでいると 爆風が6km先の戸坂村にも届き 肥田先生は後方へ飛ばされて衝撃を受けた。 家は崩壊し埋もれたが 子供を助けて外に出た。 子供の心音を聞くため聴診器を探したが 見つからないため 直に聞こうとしたが何も聞こえない。 爆風で壊れた家に埋もれたときに 肥田先生の耳の中にまで 土が入ったのであった。 耳の土を掻きのけて、やっと子供の心音を聞いたという。 それから陸軍病院へ帰ろうとしたが 広島は死体が累々で 戸坂村へ戻って 小学校の校舎で まだ生きている人の救援を陸軍として始めた。 (もっと細かく話されて映像を見ているような気がした) ボロをまとっているのかと思えば それが焼けただれた皮膚であり 手の施しようもなく 死んで行く。 その死体の中には原爆投下後に 救援に市内に入った無傷の兵隊もいた。 (入市被爆という) 原爆の急性症状 1:高熱(体内から湯気が出るほど) 2:目・鼻・口からの出血 3:口から死臭 4:腕の内側の紫斑 5:髪の抜け落ち 1945年8月30日に専用機「バターン号」で 神奈川県の厚木海軍飛行場に到着したマッカーサーの 指令により 被爆の人体状況はアメリカの軍事機密であるから 他言はならないこととなる。 治験はアメリカのものであり 内部被曝の状態を調べてもならないと通達された。 入院させても治療はせず検査のみであった。 日本への原爆投下は投下3年前から決まっていた 人体実験であったのだ。 投下から13年後に すでに原爆被爆の障害のある者は一人も生存していない と アメリカが発表。 (どこか原発の収束宣言に似てないか?) 被爆者も被爆者であることを自ら隠すようになる。 口止めされれば家族にさえ話さない日本人であった。 1977年に開かれた「NGO被爆問題国際シンポジウム」で 内部被曝はないことになってしまった。 しかし、肥田先生は ずっとその問題と戦われ 官憲の手で捕らえられたこともあるそうだ。 壮絶な67年間である。 昨年からは 福島第一原発事故後、放射線の健康影響について発言している。 自然放射線と人工の核分裂放射線を 混同して 安全だという学者がいる。 ホルミシス効果などはこの最たるものの愚。 長期摂取の低レベル線量は ボディブローのように効いて来る。 政府が福島の子供たちを避難させる決心さえすれば 避難受け入れ箇所は 多々あるのに。 (私は落涙した……) 東電は殺人鬼だ! 原発の火を消してください。 これから生まれてくる子供のために 核兵器(⇒原発)を アメリカに持って帰ってもらおう。 今、日本の政権を取っているのはフヌケである。 野田はアメリカに帰れ!と。 95歳の高齢にして2時間半を 立ちっぱなしで 原稿もなしに 語りかけられた私たち。 大人の責任として 原発の火を消さねばならないと 改めて決心した日であった。 著書を購入して サインをいただき、握手をされた。 その手は柔らかく 力強く 暖かであった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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