九死に一生を得た洞窟と霊石信仰の祠@読谷村「シムクガマ/波平集落」
(シムクガマ)沖縄本島中部の西海岸にある「読谷村波平(なみひら)」に「シムクガマ」と呼ばれるガマ(洞窟)があります。沖縄の言葉で「シム」は"下"「ク」は"向く"を意味し、谷の下にガマがあることから「シムクガマ」という名前が付きました。沖縄戦の1945(昭和20)年3月、アメリカ軍の空襲は日に日に激しくなり、艦砲射撃が開始されてから「波平集落」では約1,000人の住民が「シムクガマ」に避難するようになりました。そしてアメリカ軍の沖縄本島上陸の日、激しい爆撃の直後にアメリカ兵が住民が隠れている「シムクガマ」を発見してガマに迫って来たのです。(救命洞窟之碑)(シムクガマの鍾乳洞窟)アメリカ兵が銃を構えてガマの入口に現れると、人々は恐怖に襲われガマ内は大混乱に陥りました。死を覚悟しながら避難人はガマの奥へ逃げ込もうとしますが、約1,000人もの群衆で身動きが取れませんでした。その時、ハワイからの帰国者である比嘉平治さん(当時72歳)と比嘉平三さん(当時63歳)の2人が「アメリカーガー、チュォクルサンドー(アメリカ人は、人を殺さないよ)」と皆を必死になだめ始めました。するとガマに避難していた人々は説得に応じて投降し、約1,000人もの命が奇跡的に助かったのです。この事実に基づいて「波平集落」では、数多くの尊い命を救った2人の恩人達に感謝の意を込めてガマの入口に「救命洞窟之碑」を建立しました。(シムクガマ内部)(シムクガマ内部)(シムクガマ内部/北之天満金満宮の拝所)以前「波平集落」の区長をしていた比嘉さん(88歳)の話によると「シムクガマ」の洞窟内部を奥地に向かって流れ込む水は西海岸の海に流れ着く説があるそうです。かつて本土の研究機関が大規模なガマの調査を行い「シムクガマ」内部の奥深くまで探索しましたが、水が流れ進む場所を特定出来きませんでした。この水がアメリカ軍の猛攻撃から身を潜めた約1,000人もの命を繋いだ事は確かな事で、その命の水の行く先が未だに解明されない謎も「シムクガマ」の神秘となっています。ガマの入口の左奥には「波平御世神 二代天孫 北之天満金満宮」と記されたウコール(香炉)と霊石が祀られています。(シムクガマのガジュマル)(ガジュマル内部の拝所)(キジムナーガマ)「シムクガマ」入口の崖に高樹齢のガジュマルが無数の幹を伸ばしています。ガジュマルには神が宿ると言われており、この幹の内側にある琉球石灰岩の崖に開いた穴が拝所として祀られています。ガジュマルの根は水を求めて琉球石灰岩を貫通して岩の内部に伸びて行きます。「シムクガマ」内部の水路にも細長いガジュマルの根かが到達して水分を吸い込み、ガジュマル本体に命を注ぎ込みます。「シムクガマ」の東側に「キジムナーガマ」と呼ばれる小規模のガマ(洞窟)があり、沖縄戦では「波平集落」の5〜6世帯が避難していたと伝わります。(マチムトゥヌメー/松元の前のガジュマル)(チンマーサー)(ターターモー/多和田毛)「波平集落」の中央にある屋号「松元」の前には大きなガジュマルがあり「マチムトゥヌメー(松元の前)のガジュマル」と呼ばれています。道が二股に別れる三角形の場所は集落の若者が集まり、力石を持ち上げて競い合うなど憩いの場所でした。そこから北東側に立つ「チンマーサー」は「ウフイチンニー(大池根)」というアシビナー(遊び庭)跡の前にあり周囲には石が積まれています。かつては青年達の集会の際に待ち合わせ場所としてよく利用されていました。「波平集落」の東側にある「ターターモー(多和田毛)」は集落の創建に関わった「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が居住した地として聖域と崇められています。(神アサギ)(シーシヤー/獅子屋)「波平公民館」の北側に「神アサギ」があります。戦前は「アタトーヤー」という瓦葺の建物があり、その敷地を「神アサギモー」と呼んでいました。「波平集落」の祭祀は「座喜味ノロ」の管轄で、「神アサギ」はウマチー(豊作祈願/収穫祭)に訪れた「座喜味ノロ」が休憩する神聖な場所でした。さらに「波平公民館」の西側に「シーシヤー(獅子屋)」の建物があり「波平集落」の守り神である獅子を納めています。旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会に合わせて「シーシヤー」から獅子を迎える「ウンチケー(お迎え)」を行なっています。現在の「シーシヤー」は1990(平成2)年の午年に建立されました。(アラグシクハンジャ/新城波平)(アラグシクハンジャの位牌)(ハンジャウフヌシ/波平大主之墓)16世紀頃に屋号「イリグェー(西桑江)」と呼ばれる家がこの地に住みついたのが「波平集落」の始まりとされています。その後「マチトゥキシー(松渡慶次)」「アラカキ(新垣)」「ウシムンナン(牛百名)」「アガリグェー(東桑江」「アガリマチダ(東松田)」「マチムトゥ(松元)」のナナチネー(七世帯)に「ターターチョーデー(多和田兄弟)」が加わり村造りがなされたと伝わります。その後「ウシムンナン(牛百名)」が「アラグシクハンジャ(新城波平)」となりました。かつてニーヤ(根屋)である「イリグェー(西桑江)」の上座敷には「波平集落」を治めていた「ハンジャウフヌシ(波平大主)」が祀られ、下座敷にはヒヌカン(火之神)が設置されていました。「ハンジャウフヌシ(波平大主)之墓」は集落の西側にあり「清明祭」で拝まれています。(アガリジョウ/東門)(ハタクンジマーチ/旗括立松2世)「アガリジョー(東門)」は「波平集落」の東の入口にあるアシビナー(遊び庭)で、旧暦7月16日の旧盆行事では「波平棒」と呼ばれる棒術やエイサーが披露されます。また旧暦8月15日の「ジュウグヤー(十五夜)」の観月会では、昔から継承される獅子舞や舞踊など25種類もの演目が披露されます。「アガリジョー」の一角には戦前からムラアシビ(村遊び)の際に「波平集落」の象徴である旗頭を立てる「ハタクンジマーチ(旗括立松)」がありました。現在の松は二代目であり「ハタクンジマーチ2世」と呼ばれ、集落の伝統行事が大切に継承され続けています。(カーヌイー/川之上の石屋)(トゥカーチョンナー/戸加喜友名の石屋)(マチムトゥイリ/松元西の石屋)(神アサギ/神阿佐木の石屋)「波平集落」には「イシヤー(石屋)」と呼ばれる石板で造られた祠が点在しており、沖縄で多く見られる「ビジュル(霊石)」の役割があるとされています。集落には「カーヌイー(川之上)の石屋」「トゥカーチョンナー(戸加喜友名)の石屋」「マチムトゥイリ(松元西)の石屋」「神アサギ(神阿佐木)の石屋」の4つの「イシヤー」があり、旧暦9月9日の「菊酒」にちなんで拝まれています。更に「神アサギの石屋」は正月のハチウガン(初御願)の際にも拝まれています。「ビジュル」とは主に沖縄本島でみられる「霊石信仰」で豊作、豊漁、子授けなど様々な祈願がなされています。16羅漢の1つの賓頭盧(びんずる)がなまった言い方で自然石を神と崇めて大切に祀られています。