カテゴリ:反天皇制
僕たちが良く使う「民主主義」の、もっとも反対の極にあるのが「天皇制」だろう。現在の「人、皆、平等」という社会には、本来、全くなじまない・・・それが、戦後も、引き継がれてきたことの不合理さを 僕は、よく考える。
特定の一族が、国民と距離を置いた「上位」の存在として、持ち上げられる・・・そんな社会は、(戦後民主主義)とは、相容れないにもかかわらず・・だ。 「支配」は、していない・・・と言いつつ、莫大な国民の税金を費消し、特権階級を形成していることの理不尽さを 強く糾弾したい・・・・
(利用できるものは、何でも利用しようとした)戦後の保守政権は、「天皇制」を フルに利用して、自分たちの政権を維持し続けた。
中学生時代、通学の電車の中で、多くの女性たちが、皇室記事を満載している 「女性週刊誌」を読んでいたのを、覚えているが・・・あれは、今になって思うに、まさに、国民と皇室の距離を近づけて、(=親しみやすい皇室で、天皇制に対する批判を和らげる)・・・洗脳記事だったことが、今になって、良くわかる。
国民の関心を、昔の(神としての絶対主義天皇)から、(親近感の持てる皇室)へ、洗脳工作され続けた結果が、今の日本の姿だろう。
昭和天皇(ヒロヒト)の戦争責任は、彼が死んでも消えることは無い・・・多くの国民が辛酸を嘗めさせられた・・・しかし、戦前、戦中世代が、どんどん死に絶えていく中で、戦争の記憶の風化が進んでいる。
我々の親の世代の戦争体験を大切に守りながら、それを、天皇ヒロヒトの戦争責任の問題としつこく結び付けていく意義は大きいだろう。
今でも、「天皇は、平和主義者だ」などという、ばかげた主張をする学者やマスコミが一部存在するが、白を黒という類(たぐい)の暴言だと断言できる。 天皇の「戦争責任」は、果てしなく大きいのだ。
皆さんは、どう思われるか? (はんぺん) ―――――――――――――――――――――――――――――――― 戦友の生きた証し、私は焼いた。91歳が告白する「罪」 2018-8-13 国吉美香、木村司 朝日新聞 1945年夏、日本海に面した京都・宮津湾近く。油まみれの軍服を着た一人の少年が風呂敷を担いで歩いていた。人目に付かない丘まで来ると、穴を掘って書類を投げ入れた。そして、マッチで火を放った。
パチパチ、パチパチ。書類は音を立てて燃え、熱気が顔に迫った。「お前はまだ軍に協力しているのか」。少年は、戦友の声を聞いた気がした。
公文書廃棄、73年前も 敗戦の霞が関に何日も炎と煙が 当時18歳の少年だった西崎信夫さんは91歳になったいま、東京都西東京市に一人で暮らす。居間の壁には、魚雷の射手として乗り組んだ駆逐艦「雪風(ゆきかぜ)」の絵が掛けられている。左太ももには銃撃の痕が残る。
赤紙配った、みんな死んでしもうた 軍に背き守った秘密 「戦友たちに悪いことをしてしまった」。焼いた日のことを、そう言った。
15歳で海軍特別年少兵に志願。43年から雪風に乗り、44年のマリアナ沖、レイテ沖の海戦を経て、45年4月には戦艦「大和」とともに沖縄特攻に出撃した。
東シナ海で、米軍の爆撃や魚雷を受けた大和が真っ二つに割れるのを目撃した。雪風から海面に投げ入れた縄を2人がつかんだが、西崎さんは重さに耐えきれず、1人をたたき落とした。この場面は戦後、何度も夢に見た。
京都で敗戦を迎え、そこで上官の水雷長に命じられた。「軍の機密を焼却しろ。1人でやれ」 乗員数百人の部隊遍歴、人事評価を記した調査表、暗号の解読書……。「人秘」「軍秘」と書かれた書類を半日かけて燃やし、灰も土の中に埋めた。
「罪」の重さを自覚したのは70代半ばを過ぎ、戦争体験を人前で話してから。あのとき偶然見つけて抜き取った自身の記録を、戦後初めて読み返した。「俺は頑張って生きていたんだな」という思いがわいたが、次第にいたたまれなくなった。「燃やした公文書は、戦友たちの命の集積。戦争の真実を正確に伝えられなければ、海に沈んだ仲間たちが浮かばれない」
戦後73年。雪風の乗組員で生きているのは数人だけになった。西崎さんは「業を背負ったもの」として、生きている限り体験を伝えていこうと考えている。(国吉美香、木村司) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022.03.25 10:45:30
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