今回は、ひとみさんのブログで紹介された映画、「City of God」。
もともとノンフィクションものは好きで、加えてやくざ映画も好き。
なので、すぐにレンタルビデオショップに走った。
2時間を超す映画(130分)。
だけど長さは全然感じない、みるみるうちに引き込まれてしまった。
ストーリー
1960年代後半、ブラジル・リオデジャネイロの貧民街“シティ・オブ・ゴッド”では銃による強盗や殺人が絶え間なく続いていた。そこでは3人のチンピラ少年が幅を利かせている。ギャングに憧れる幼い少年リトル・ダイスは彼らとともにモーテル襲撃に加わり、そこで初めての人殺しを経験すると、そのまま行方をくらました。一方、3人組の一人を兄に持つ少年ブスカペは事件現場で取材記者を目にしてカメラマンを夢見るようになる。70年代、名をリトル・ゼと改めた少年リトル・ダイスは、“リオ最強のワル”となって街に舞い戻ってきた…。
(Yahoo!ムービーより)
この映画の舞台となった1960年代後半から1970年代のブラジルは、軍のクーデターにより軍政がひかれ、生活や言論が抑圧された時代。それと同時に疲弊した経済が徐々に上向きはじめ、14%ものGDP実質成長率を達成した時代(1973年時点)だ。
だが、それも中流以上の階級でのことであり、「シティ・オブ・ゴッド」では無縁の話だ。
スラムで生きのびるためには、人殺しもいとわないという少年たち。そこではドラッグと暴力が日常的であり、スラム内での最下層の生活からはい上がろうとしてドラッグと暴力に頼る。
そういったこども達を、これでもかこれでもかとスクリーンに映し出す。
この映画のテーマは重い。
しかしながら、渇いた映画である。
全編を通して、暴力と殺戮シーンの連続。普通なら「目を背けたくなるような凄惨なシーン」が延々と続く。なのに、スクリーンから目をそらすことはない。むしろ、釘付け状態だ。
凄惨な映画だけど、見ていて凄惨さをそんなに感じない、不思議な思いに陥った。
これは、この映画の表現方法によるものだろう。
あれだけの殺人の場面がありながら、流れる血の量が圧倒的に少ない。戦争映画や日本のヤクザ映画などのように、スクリーンに血しぶきが飛ぶと言うことはなく、淡々と、当たり前のように人が死んでゆく。
もう一つは、主人公と見ている私のスタンスが一緒だと言うこと。
スラムで育ちながら彼らと一定の距離を置きカメラマンを目指すブスカペのスタンスと、スラムに足を踏み入れることなくこの映画を見て、スラムの現実を「のぞき見」する私のスタンスが一緒で、「客観的に」見ることができるのだ。
渇いた表現をすることと客観的に見せることで、よりいっそうこの映画のテーマを浮かび上がらせ、見ている私に突きつけてくる。
だがこの映画は、「私たちにどうにかしろ」と訴えている映画ではない。「現実を知って欲しい」とだけ訴えているように思えるのだ。
そうであればあるほど、現実を突きつけられた私は、ただただ佇むのみである。
「City of God」の公式ホームページ