テーマ:親の介護問題(957)
カテゴリ:なにげない日常風景
平成最後の大晦日。
今年も1年、いろいろあった。 冬、ピョンチャンオリンピックで連日盛り上がった。もう何年も前のよう。懐かしい。 春から初夏にかけて、うちの野菜の販売イベントをやった。 お買い求め下さったお客様に感謝。 けれど、、、ご厚意でお誘い下さったお店のオーナーが、いきなり怒り出した。意味不明のまま、イベントは続けられなくなった。 気に入って通っていたそのお店を、利用すらできなくなった。 いろいろ残念だった。 その僅か2回のイベントで、学んだこと得たものもあった。 何にしても、やらないと分からない。 災害の多い年だった。 大阪の地震、そして故郷を含む広範囲での西日本豪雨災害、日本中の酷暑、そして北海道の地震と全域停電、また故郷を含む広範囲での二度の大きな台風。 特に酷暑では、私の病状も悪化。そして姑が他界。 姑のお通夜・告別式にも四十九日にも、甥っ子の結婚式にも足を運べなかった無念。 百箇日でやっと行けて、「やっと来れたね、良かったね」と優しく温かく声をかけて下さった叔母さん方と、主人にも私にも敵意・悪意をむき出しにぶつけ声を荒げる義妹と。 今もただ、義妹の支離滅裂なバッシングにひたすら耐え続ける主人に、姑が重なる。 おそらくは、義妹は姑に言語虐待を続けていたのだろう。 まさか、虐待が、こんなあまりに身近で再発するとは。。。 私に出来ることは、少ししかなかった。けれど、できることは全てやった。 当初は、義妹の負担を少しでも減らせるようにと、訪問介護などの公的支援が利用できることを主人に強く言った。それらの手続きは、主人自身が岐阜市役所まで行ってやってきてくれた。それは、虐待被害者から虐待加害者を少しでも離れさせ、虐待の起きている密室の中に第三者を入れることになった。 主人は、姑の様子を見に岐阜に戻るたび、義妹に汚染されて、おかしくなっていた。 そのたび、徹底して除染した。 主人から聞く限り、言語虐待の常態化は疑いようがなかった。 しかし、主人がまず、そんな凄惨な状況を否認した。義妹の元々の性格だと思いたいようだった。 一方で、姑の希死念慮が強くなっていた。あの気丈な姑が「死にたい死にたい」と何度も主人にもこぼしていた。当初のSOSのうちに対処できていれば・・・。 次第に、酸素チューブを自ら外すようになった。義妹も主人も、それを姑の自殺未遂と認めず姑の落ち度として、特に義妹は、そのたびに姑にガミガミ叱りつけていたそうだ。 希死念慮への適切な対処は、最後まで皆無だった。。。 相手を憎んでの虐待ではないのだ。 適切なHow toが分からないことや、余裕のなさから、虐待は起きるのだ。 そして共依存。 「嫁だから間に入れる」というものではなく、むしろ嫁という他人だから入れない関係性。 まざまざと痛感させられた。。。 辛かった。。。 ・・・今夏、私自身も自死を何度となく考える毎日だった。 今思えば、酷暑だけでなく、間近な虐待を目の当たりにしていたことでの増悪だったのか。ああ、今の今まで自覚できなかった。 それだけ強く、間近な虐待への恐怖を抑圧していた。 そのぐらい怖かった。 直結する生きる死ぬへの恐怖。そして、猫に歯向かう窮鼠のような、恐怖ゆえの自衛のための凄まじい怒り。 おそらくは、義妹も怖かったのだろう。日々弱っていく母親に接して、失う恐怖でいっぱいだったのだろう。 母親にも兄である主人にも、怖くてすがりつきたかったのが、怒りに特化して転化された結果、姑への虐待になり、主人(など)への支離滅裂なバッシングなどになった、のかもしれない。 密室での虐待。直面できず否認してしまった主人。義妹も主人も受け止めなかった姑のSOS。 ただ、主人から話を聞く限り、訪問看護などの第三者の医療スタッフは、(もし虐待が起きていたとして)見逃さず適切に対応して下さっていた模様。 第三者に入ってもらえていて良かった。 辛い辛い辛い1年だった。 やっと築きつつあった庭仕事や畑仕事で広がった楽しみを、完全に失った時期もあった。 そんな時は、のんきで穏やかな主人との何気のない時間が支えになって、乗り越えてこられたと思う。 いつも本当にありがとう>主人 来年もまた、晴れる日も曇る日も雨の日もあるように、Good timesもBad timesも、代わる代わる訪れるだろう。 辛い時は、素直に嘆き悲しもう。 嬉しい時は、心の底から喜び楽しみ笑おう。 ムリしない。ガマンしない。頑張りすぎない。 流れに棹せず、生きられるだけ生きたい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019/01/10 12:10:49 AM
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