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2008年07月18日
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カテゴリ:斉藤啓一

心理学者のフロイトは、宗教とは「神経症の産物だ」と述べたが、狂信的な信者の様子を見ていると、彼の説にはうなずけるものがある。もちろん、宗教の本質が神経症の産物であるわけではないが、狂信的な信者に関しては、ほとんど神経症的な動機に支配されているとしか思えない。
 神経症とは、ある固定化した観念に振り回されてしまう心理的トラブルである。たとえば、何回も手を洗わなければ気がすまない「不潔恐怖症」だとか、人前で赤面するのではないかといった「赤面恐怖症」などがよく見られる。ある一定の儀式的な行動をしなければ眠れないという人、いざセックスをしようとすると性機能が発揮できない性神経症というのもある。これらは「眠れないのではないか」「セックスがうまくできないのではないか」という不安が大きな原因のひとつといわれている。
 同じように、狂信的な人が、熱狂的に「自分の信じる宗教だけが正しい」と叫ぶのも、その裏には「自分の宗教が正しくなかったらどうしよう」という懐疑と不安が潜んでいるように思われる。そうした不安をぬぐい去るために、声を大きくして叫び、不安をごまかそうとしているのではないか? やたらに信者を増やすことに熱中している教団なども、同じような動機に基づいているのではないのかと思う。自分の宗教を信じる者が多ければ多いほど、その宗教が「本物」らしく思えてくるからである。
 また、過剰に厳しい苦行や禁欲などを実行している人ある組織に所属し、その組織の教えを堅く守り、多額の布施や奉仕を捧げ、祈りの際には、どのような方式で祈るのか、その細かい段取りを厳密に実行しなければいられない人なども、「これをしなければ救われないのだ」という恐怖心が根底になっていると考えられる。あるいは「こんなにも厳しい行ができるのだぞ」といった自己優越感を満たそうとしているか、そのいずれかであろう。さもなければ、未開な民族にしばしば見られるように、伝統や因習や周囲の雰囲気などに飲まれて、何も考えずに、ただ理由もなく狂信的になっているかである。
 神経症がそうであるように、狂信も、結局その中核には「自我」がある。ひらたくいえば、「利己的な目的」で支配されている。表面的には、自分を犠牲にして、宗教や教団や教祖に尽くしているように見えても、本質的な動機は、利己的であり、常に「自我中心的」な視点から抜け出していない。彼らは、自分を守るために宗教を手段として利用しているにすぎない。あるいは、自分の信じる教団を大きくすることを通して、「自分を大きく」しようとしているのである。教祖を崇拝しているつもりで、実は自分自身を崇拝している。
 こうした行為の根底には恐怖があり、その恐怖ゆえの自己防衛と、その自己防衛のための攻撃性が存在している。狂信的な教団が、頑なに伝統や形式を保守し、また、神経過敏ともいえるほどの防衛的な懐疑心や攻撃性を発揮するのも、そのためであると考えられる。
 このように、狂信は、基本的に恐怖、あるいは支配欲や自己優越欲といったものが土台になっている。後者の支配欲や自己優越欲といったものも、それは「自分を守ろう」とする欲求、換言すれば恐怖からの逃避を動機としていると考えられるので、これも結局は恐怖を土台としているということになる。そして、なぜ恐怖を感じるのかといえば、「自分」を守ろうとするからであろう。
 要するに「自分(エゴ)」があるということなのだ。エゴと恐怖とは表裏一体である。これが狂信の正体ではないのだろうか。狂信とは、恐怖に駆られたエゴの産物であるように思われる。

 ならば、敬虔さとは、いったいどのようなことをいうのだろうか?
 敬虔な人は、まず何よりも、利己的な視点をもっていない。「我意」にとらわれていない。自分というものを忘れている。エゴがないから、守るべきものもなく、そのための攻撃性もない。声高に「自分だけが正しいのだ」と叫んだりしない。敬虔は、恐怖を土台としていない。つまり、エゴを土台としていない。
 敬虔な人にとって、自分の信じる宗教だとか、その教団だとか、教義などといったことは、おそらくは二の次である。彼らには、それらが自分の「所有物」であるという感覚はない。その宗教なり教団なり教祖を、自己の安全やアイデンティティを確立するための「手段」にしていない。
 たとえ、いかに崇高に感じられる宗教的な事柄であっても、「自分のために」行う行為は、決して敬虔ではない。「自分を見せよう」とする動機で行われた行為は、決して敬虔にはなり得ない。自己を宣伝する行為には、敬虔のかけらもない。他者のための犠牲というわけでもなく、ただ自らの肉体を苦しませるだけの苦行は、単なる自己満足であって、決して敬虔ではない。
 敬虔な人たちは、表面的な教義を越えた本質的な教え、つまり、真の宗教の本質を体得した生き方をしている。彼らは聖典なり経典の「字面」を読むのではなく、「行間」を読んでいる。彼らにとって、宗教は「服」のようなものに過ぎない。偉大なのは「服」ではなく、それを着る「人間」なのだと知っている。教義を口にすることではなく、「生きること」が、宗教の本質であると理解している。
 すなわち、敬虔とは、自分のためではなく、神のために生きること、神のために生きるとは、人のために生きることであるということが、理屈ではなく、行動として現前されていることだ。
 敬虔な人は、だから生き生きしており、形式ばった規律や組織制度にとらわれたりしない。彼らは外からではなく、内から教えを感得している。そのため、そこには自由と柔軟性がある。
 しかし、狂信的な人たちは、体感的に神の理念を把握する次元にまで意識を拡大することができない。固定化した枠組みの中をくるくると回っているだけだからである。狂信的な人は、ギラギラしてはいても、生き生きしていない。まるで決まりきった方向にしか曲げられない関節をもった機械のように、どんなに馬力があり、熱を帯びていても、柔らかさというものがない。狂信的な人はどことなく傲慢さを感じるが(エゴからきているために)、敬虔な人は自然の謙虚さを備えている。いかに小さなことに対しても、感謝の念を忘れない。誠実で、穏和である。敬虔な人は、どこまでも神や真理に対して素直である。だから、争いや対立をもたらすことはない。
 敬虔さとは、こうしたあらゆる美徳の総称ではないのだろうか?

 

                         斉 藤 啓 一(精神世界著作家)






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最終更新日  2008年07月18日 20時07分58秒
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