テーマ:政治について(19787)
カテゴリ:つれづれなるままに
中曽根内閣で内閣官房長官を務め、リクルート事件で受託収賄罪に問われて有罪になった元自民党衆院議員藤波孝生氏が逝去されました。
三重県を基盤に持つ非常に政治力のある政治家でした。11回の衆議院議員の当選があり、リクルート事件がなければ大臣、あるいは総理大臣にまで登りつめた可能性もあったと思います。 第72代第2次中曽根内閣では、藤波氏が内閣官房長官を勤められました。 (昭和58年12月27日)下から2段目左から2人目が藤波孝生氏です 官房長官時代に靖国神社公式参拝や防衛費の国民総生産(GNP)比1%枠撤廃などの懸案に取り組み、電電、専売両公社の民営化など、中曽根行革路線を推進した。 特に首相の靖国神社公式参拝については、官房長官を務めていた1985年8月、自らの私的諮問機関「閣僚の靖国神社参拝問題に関する懇談会」(靖国懇)が「政教分離原則に抵触しない方法による公式参拝の途があり得る」とし、同月15日の中曽根首相(当時)の公式参拝に道を開いた。 私個人の考えとして、いずれリクルート事件を含め 藤波孝生氏の再評価が起こると考えています。 藤波氏は、同期当選の河野洋平氏(現衆院議長)と共に行動し、河野主宰の超派閥による政策勉強グループ「政治工学研究所」の主要メンバーとなった。河野氏らが新自由クラブを結成する時、ギリギリまで態度を保留し、結局参加を見送った。 その後、「政治工学研究所」を政策グループ「新生クラブ」に発展させて、その座長として活動した(メンバーは60人を超え、後に首相となる羽田孜氏や森喜朗氏らも参加した)。 また中曽根派内では、渡辺美智雄氏の温知会系(山崎拓氏など)と藤波氏の新生クラブ系 (野田毅氏など)の活動が活発となり、渡辺氏、藤波氏が中曽根派の後継者として主導権争いをした。 今このときになっても、リクルート事件に関しては、藤波氏は中曽根氏を庇ってひとり犠牲になったとの同情を寄せる声も多い。 真面目な人柄を慕う人も多い政治家でした。 ご冥福をお祈りいたします。 政治と鎮魂 にんげん藤波孝生 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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