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足湯でよもやま話(笑)

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『昆布茶と塩麹』

『昆布茶と塩麹』

2017.06.29
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カテゴリ:つれづれ日記
【お知らせ】
請願書の書式は6/28のエントリーにて紹介しています。



皆様こんにちは。
暑くなってきたので、背景デザインを変えてみました(笑)。

さて、ご存知の方もおいでのことと思いますが、
2677年に及ぶ皇室の歴史の中で、一度、民間人が天皇
の地位を狙ったことがありました。


中学の歴史教科書で習うと思います。
「道鏡事件(別名:宇佐八幡宮神託事件)」です。
詳細はねずさんのブログはじめ、wikipediaや様々なサイトで紹介されているので、
ぜひそちらをご覧ください。

ここでは、かいつまんでご説明いたします。
【登場人物】

第46代孝謙天皇(重祚して、第48代称徳天皇)

弓削道鏡(大阪府八尾市出身の僧侶)




和気広虫(3歳年上の清麻呂の姉)・・・夫の死後出家して「法均尼」と名乗る



和気清麻呂


【道鏡事件(宇佐八幡神託事件)】

岡山に和気町という地名がありますが、
その名に残るように、そこは、和気清麻呂姉弟の出身地です。
和気家の祖先は垂仁天皇の第5皇子です。

姉の和気広虫は成人すると宮中の女官として都にのぼり、
弟の清麻呂も姉の後を追うように宮中の警護を行う舎人となりました。
仲の良い姉弟で、都で一緒に下宿暮らしをしていたようです。

姉の広虫は16歳の時に、中宮に勤める葛木戸主と結婚します。
夫の戸主はとても優しい人で、当時戦乱や飢饉によって親を亡くした孤児たちを集めて養育し、
成人すると葛木姓を名乗らせていました。
広虫はそんな夫をよく助け、子供たちの面倒をよく見る妻だったようです。
これが今の「里親制度」の始まりともいわれています。西暦740年のことです。

しかし、その優しい夫が亡くなってしまいます。
悲しんだ広虫は出家して尼になり、「法均」と名乗ります。
出家前の功績から、朝廷は広虫に「進守大夫尼位」を授けてくれました。

      ・・・・・・・・・・・・・・・・・

宮中では聖武天皇と光明皇后の娘である、孝謙天皇が女性天皇として即位していました。
当初は母の光明皇后の意向を受け、
760年、藤原仲麻呂が太政大臣となりました。
しかし、藤原仲麻呂の政治に反感を持つ貴族もいるわけです。

そんな中、孝謙天皇が重病に倒れ出家します。
そして淳仁天皇が即位します。

出家した孝謙天皇の看病(加持祈祷など)のために宮中に上がったのが、僧・弓削道鏡です。
道鏡の祈祷で平癒した孝謙天皇は、道鏡を信頼し重用するようになります。
762年、藤原仲麻呂が、道鏡の対する寵愛を諫言したことが逆に孝謙上皇を激怒させ、
「天皇は小事を行え、大事は上皇がする」と宣言、宮中で仲麻呂の勢力は抑圧されていきます。
そして765年、出家した天皇(称徳天皇)には出家した大臣が必要といった道鏡に
太政大臣禅師の位を与えています。

そんなわけで、道鏡は僧でありながら、権力を持ち、政治に口を出すようになりました。
しかも後ろ盾は称徳天皇。誰もたてつくことができません。

そこに立ち向かったのが、抑圧されていた藤原仲麻呂でした。
764年、藤原仲麻呂は、自分に賛同する貴族らと一緒に兵をあげ、
道鏡に立ち向かいますが、密告者が出たりして形勢は不利に。
国軍を手中におさめていた道鏡はこれを破ります。(藤原仲麻呂の乱・別名:恵美押勝の乱)
中身はどうあれ、体外的には
道鏡は天皇の後ろ盾がある「官軍」、仲麻呂は敵対する「賊軍」です。
藤原仲麻呂は、反逆罪で首をはねられ、仲麻呂についた貴族たち375名も連座で逮捕されています。

このとき、道鏡側から「彼らを死罪にするべき」という意見が強く出ましたが、
重祚していた称徳天皇(孝謙天皇)に法均尼(広虫)が助命減刑を願い出て、彼らの命を助けています。
(※重祚(ちょうそ):一度退位した天皇が、復位すること。)

さて、その5年後の769年、まさに権力の絶頂にいた道鏡がついに事件を起こします。
皇位を望むように至ったのです。
孝謙天皇の看病に成功し、その寵愛を受け、当時、
道鏡は太政大臣禅師のみならず法王の位までも手中に収めていました。
しかも政敵であった藤原仲麻呂は殺害し、まさに時の最高権力者となっていたのです。

道鏡は、自分の弟で太宰帥の弓削浄人と太宰主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)をつかい、
「道鏡を行為につければ天下は太平である」と」いう内容の宇佐八幡宮のご神託を奏上し、
自ら天皇になることを望みます。

称徳天皇は悩みました。
仮にも宇佐八幡のご神託だというのです。
でも、その内容は、臣下の道鏡が皇位を継ぐという前代未聞の大問題でした。

そこで、称徳天皇は神託には神託で対抗することにしました。
天皇の夢枕に八幡大菩薩があらわれ、
「真の神託を告げるから宇佐八幡へ法均(広虫)をよこすように」とお告げがあったとして、
広虫を宇佐八幡へ使わせようとします。
ところが当時、広虫は病に臥せっていて、とてもこの役目を遂行することができません。

そこで弟の和気清麻呂が、姉の代わりに勅使として宇佐八幡宮へ行くことになりました。

この話を聞いた道鏡は、清麻呂を呼び、
「わしが天皇になったら、お前を大臣に任命しよう」と持ち掛けています。

清麻呂は出立前に姉の広虫と国の行く末について話し合い、
姉の助言を心中深く受け止めました。

769年6月、いよいよ清麻呂は勅使として宇佐八幡へ旅立つ日がやってきました。
出立前、称徳天皇はひそかに清麻呂に1首の歌を送っています。

 
西の海
 たつ白波の
 上にして
 なにすごすらん
 かりのこの世を

「西の海」というのは、西方浄土を想起させます。
つまりこれは仏教界の海、つまり大御所である道鏡のことです。
「たつ白波」は、その道鏡が立てた波風(白波)です。
「上にして」は、道鏡を天皇に就任させるということです。
「かりのこの世を」は、現世を、
「なにすごすらん」は、どうしてすごせましょうか、です。

つまり称徳天皇は、どうして臣下であり万世一系の血筋のない道鏡を天皇にしなければならないのか。それをしてしまったら、支那の易姓革命と同じで、
結局は日本は、政権をめぐって血で血を洗う国になってしまう。

だから道鏡の要求は絶対に認められないというメッセージです。

大分県にある宇佐八幡宮へ到着した清麻呂は、身を清め心を鎮めて、八幡大神に宣命文を読もうとしました。
ところが禰宣の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)
「すでに道鏡を皇位に即けよという神託が下されているのだからあらためて宣命を奉る必要はない」
と、これを拒みました。

不審に思った清麻呂は
「これは国家の大事です。そして私は勅使(ちょくし:天皇の使い)です。
勅使の前に 既にご神託が下されているのであれば、その託宣を示してください。」
と迫ります。

これに与曽女は答えられません。
当然です。道鏡一派に買収されていたからです。

そこで清麻呂は与曽女を退け、改めて八幡大神の真のご神託を受けます。

「わが国家は開闢より君臣定まれり。

 臣をもって君となすこと、 未だこれあらざるなり。
 天つ日嗣は必ず皇緒を立てよ。
 無道の人は  よろしく早く掃い除くべし」

つまり「臣下である道鏡を皇位には就かせない。」というものでした。

急ぎ都に戻った清麻呂は、群臣が見守る中、宮中に参内し、このご神託を称徳天皇に奏上します。
その中には、道鏡の姿もありました。
数多の役人の見守る中
清麻呂は「道鏡を掃い除くべし」と奏上したのです。

道鏡はこれを聞いて憤怒の形相で激怒します。
当然です。事前に弟や宇佐神宮に手を打っていたからです。
まさかひっくり返されるとは思っていませんでした。

しかし、皇位につけなくても、時の最高権力者です。
激怒した道鏡は清麻呂を呼び、
「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」という名前に改名させ、鹿児島県に流刑にしました。
そして、罪人として護送されていく清麻呂を刺客に襲わせてもいます。
姉の法均尼も、「別部狭虫」と改名させ、備後国(広島県)へ追放しました。
きわめて貧しい暮らしを強いられたそうです。

770年、称徳天皇が崩御され、第49代光仁天皇が即位すると、
時の太政官は早速道鏡を罷免し、下野の国の薬師寺別当に左遷します。
そして、鹿児島と広島に流罪にされていた清麻呂と広虫姉弟を都へ呼び戻し、
元の名前に戻して名誉を回復させたのです。

そして、道鏡一派に利用されたとはいえ、一度でも嘘のご神託をした宇佐八幡宮は、
これを「恥」とし、所領等すべてを天皇にお返しして、一旦愛媛県に逃れてきています。

光仁天皇の後を継いだ桓武天皇は、
道鏡のように信仰を利用して私利私欲にはしる者の政治的関与を防ぐため、
風水を立てて平安京に遷都しています。そしてこの平安京造営にかかわったのが和気清麻呂でした。
清麻呂はそれ以外にも治山治水に手腕を発揮し、民の生活の安定を図りました。

今から1300年も昔、文官でありながら身を挺して皇統を守った和気清麻呂と姉、広虫。

   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
翻って現代。
文科省の既得権益を守るために、獣医学部の新設を拒んだ文科省と農水省の官僚派閥、獣医師会。
そして獣医師会から献金を受けていた玉木議員、福山(陳)哲郎議員。

今も昔も私利私欲のため、権力に群がる人は多くいます。

果たして 霞が関の官僚に 清麻呂のような人物はいるでしょうか。

一般庶民は毎日一生懸命に働き、税金を納め、真面目に暮らしている人が大多数だと思います。

インターネットが発達し、個人で情報を発信できる情報化社会の現代こそ、
良識をもった私達一人一人が、和気清麻呂 姉弟になれるのではないでしょうか。

おかしいことは糺せる社会を。
みんなが安心して暮らせる社会を。

都議会選挙はもうすぐです。





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Last updated  2017.06.30 23:29:13
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