沖縄へ行った
那覇空港へ間もなく着陸また、コロナ過が激しくなっているが14年振りに母の故郷、沖縄へ行った。先日、長男坊の就職が内定したことがひとつの節目だと感じたし、部品不足が続く製造業界で図らずも仕事の谷間、週の後半で私が不在でもみんなには迷惑はかかるまい。やはり行くなら今しかないと母や周囲の人間には、このタイミングで行くかと言われつつ長男と1泊2日の父子旅に出た。安座間さんさんビーチ23歲の時,まだ祖母が健在だった頃小禄にあった祖母の家の前でタクシーを止めて「この辺で綺麗な海」って行先を運転手さんに言ったら南ではなく西でもなく東へ走り出し、サトウキビ畑や背丈ほどの雑草の生えた丘とかを1時間近く走るといきなり断崖の海へ抜けて運転手さんが下の方を指さすので、後部座席から腰を浮かせて前を見るとそこから見える海と砂浜の綺麗さに思わず息を呑んだ! 「帰りは、そこのバス停から〇〇番のバスで帰れるさぁ」と言われるがまま、タクシーを降りた。それはそれは記憶の中で綺麗な海になっていたのだがその海が何処だったのかが覚えてなくてgoogle マップで探していたが、多分ここだとアタリをつけて来てみたが、バス停や断崖の雰囲気から、どうやらここの様である。またいつか来ようと思って30年振りにやっと来れた。冨盛のシーサーそれから沖縄最古のシーサーを見に行った。このシーサーには沖縄戦の激戦を伺わせる無数の弾痕が今も残っている。海も見て、戦跡も見て、沖縄ソバは勿論上手いステーキも食って、夜には叔父夫婦にも14年振りに会う事が出来た。今帰仁にある祖父母とおじさんの墓に参ることも出来た。長男の就職とみんな元気だと報告できてずーっと気になっていたのでホントにスッキリした。けれど、お墓を前にすると、今までのことが思い出されて、胸がいっぱいになってしまった。もっと話したいことがあったのにと、後から思う次第である。。。今は平和祈念の建物となった、かつてのメースB(核ミサイル)発射基地の跡となった恩納村のとある場所で見た絵画の数々に衝撃を受けた。それは、沖縄戦を体験した方々が思い出すのも辛いことなのに歯を食いしばって描いた絵の数々。。。沖縄を守りに来た日本軍が、どれだけ沖縄の人に酷いことをしたか。上陸して来たアメリカ兵も同じである。是非、沢山の人にも見て欲しいのだ。絵に書いてあるその言葉や文字を命に刻んで欲しい。建設中の恩納サイト(メースB基地)一緒に絵を見ながら叔父が話してくれた。「おばあは、戦争で死んだ人は見ていないと、言ってたけどわからんよー。夜に逃げてるから、真っ暗で見えんから死んだ人の上を踏んで行ってるはずさぁ」と真顔で話していたが、頷ける様な凄惨な絵ばかりである。戦争など懲り懲りである。絵を見終わって叔父とも別れたあと、祖母たちのお墓へ向かう車中で息子が一言。「あの絵を見て、色々考えた。見に行って良かった」そう思ってくれれば、それで良いと思う。子供らにも、いくらかウチナンチューの血が流れている。平和を尊び尚文の魂(ココロ)が継承されれば。。。真栄田岬海でシュノーケリングを楽しむ親子家族にも観光だけで済まさずに、見て行って欲しいと思う。平和の礎になった悲惨な出来事が、この地で起きた事を。悲しいかな、へータイは国民を守らない。あくまでクニを守るためにある。クニが乱れれば、平気で国民にも銃を向ける。国民に銃を向ける軍隊はオシマイである。自衛隊がクニを守るつもりが国民を殺す軍隊にならぬ様にそんな日本にならぬ様に、世界から悲惨の二文字が無くなる様に強く祈りながら、生きて行こう。そう思って、帰って来た。