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「手水舎(てみずしゃ。ちょうずや)」
神社にお参りする前に、まずやることは、手や口を清めることだべな。 『神門』を潜って、辺りを見回すと、左手に立派な『手水舎』があった。 みんなと並んで、さっそくお浄めしたど。 ひんやりとした水が、きもちいがったべ~。 これが、二荒山神社の手水舎の水盤。 龍の口んとこから、水が流れて来るようになってんだ。 実は、今回、二荒山神社さ来た理由は、2っつあってな。 1つは初詣なんだけんど、もう一つは、この『水盤』だったんだ。 一見、普通の『水盤』に見えんべな。 うん。作りが特別ってわけじゃあ、ないんだど。 なにが特別なんか、っていうとな。『水盤』を寄進した人が特別なんだ。 横んとこに、名前さ掘ってあんだ。 『枝源五郎・天明5年』ってなってんだけど、わかっかな。 『枝源五郎』って人はな。 1750年ごろに、宇都宮に存在した侠客で、旅籠屋『松屋』の倅なんだどもな。 仁義に厚く、困っている人を見かけると、放っておけなくなる人だったんだ。 その性格を見込まれて、目明しにもなったんだど。 後に、江戸へ行ったらしいんだどもな。 ここでも、大親分と呼ばれる大人物になったって、言われてるんだ。 いろいろな逸話が、残ってんだどもな。 歴史的な資料は、少なくってな。生没年もはっきりしてないんだよ。 宇都宮に残ってんのは、二荒山神社に寄進した水盤と、慈光寺ある生前墓だけ。 ところが、この『水盤』も、本物じゃあないんだと。 戊辰戦争で焼けちまって、のちに醸造替えされたもんなんだって。 う~ん、残念だべな。 そうそう。 『枝源五郎』の逸話で、一番有名な話はな。 慈光寺の入口に、大きな赤い門をこさえたことだっぺ。 これは、書いとかなくっちゃな。 安永4年(1775)宇都宮城下で万人講を作って資金を集め、3年がかりでこさえたんだと。 だども、本物は1945年の第2次世界大戦で焼けちまってな。 今あんのは、復元されたもんなんだ。 『赤門』って呼ばれる門は、真っ赤な大門なんだと。 当時の様子をしっかり残して、作られたみたいでな。 そっちも、いつか見にいきたいべ。 って、ことで。 二荒山神社にある『水盤』は、『枝源五郎』に関する数少ない貴重な証拠なんだってことが、わかってもらえっかな。 もし、二荒山神社さお参りに行く機会があったら、ぜひ、じっくりと、見とこれね。 《参考》
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