読売10月5日付け「時代/源流」の中に葱花勲先生の名。記事は、芹洋子の坊がつる賛歌を誰が作詞作曲したのかを追う内容。1977年、阿蘇であったコンサート(海援隊、六文銭出演)のフィナーレで歌われた歌に彼女が惚れ、著作権の問題を解決しレコードにしようとした際の苦労話。作詩は梅木秀徳氏、九大時代、山小屋の番をしていたとき、暇に任せて広島高等師範山岳部の山岳部歌「山男の歌」の替え歌を作ったという。氏は日田高山岳部の出身で、その時の同高顧問が葱花勲先生だったという。先生は私が高校生の時、校長だった。名言「平気前進」は同窓の胸に今も残る。先生の娘も同学年に在籍していた。もう10年以上前になるが、青山に住む建築士のH先輩が、先生の書いた本を見せてくれたことがある。その中に釣りの話があり、大入島高松へ釣紀行の際、イリコを製造する水産加工場の人たちから親切を受けたことが書かれてあった。おそらく網元Aさんのことだろう。ちなみに梅木氏は、津久見に住む叔父にとって大学の先輩にあたるらしい。叔父の自伝の中にそのようなことを含め、若かりし頃の交際を書いてあった。しかし、氏が数年前FM大分の仕事でみえたとき、叔父のことを話に出してみたが、記憶は定かではないようだった。氏は顔中に白髭を蓄えた容貌。
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Last updated
2007年10月26日 07時05分10秒
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