「一度きりの大泉の話」 【萩尾望都】
かつて、竹宮惠子の「少年の名はジルベール」を読んだ時、自伝なのに萩尾望都のことばかり書いてあるのが妙な気がしたものだった。(その時の感想はここ) 竹宮惠子は、「距離を置きたい」と言って離れることにしたと書いていたが、実情はそんなことではなかった。 何があったのか、萩尾望都側から書かれている。おそらくこれは実際にあったことなのだろう。それくらい、萩尾望都の中では忘れようのない出来事だったのだ。その後一切関わりを持たず、竹宮惠子の書いたものも目にしないようにしてきた理由が書かれている。 萩尾望都の、デビュー何周年かの冊子(単行本のような体裁ではなかった)で、大泉時代のことを、竹宮惠子はグループを作っていたが、自分は一歩引いて関わりを持たずにいた、というようなことを言っていた。ずいぶんあっさり片付けているな、と思ったが、その理由もわかる。 「大泉サロン」「24年組」というようなくくりも、ただ迷惑なだけなのだ。 かくいうわたしも「24年組」という枠でくくっていた。いわゆる「24年組」の中で、最も読んだのは樹村みのりだ。樹村みのりも萩尾望都も同じグループなのは不思議な気がしていたが、もともとそんなグループなどなかったのだ。 萩尾望都は当時の心境を「困惑」として語り、「怒り」としては語っていない。 しかし、大きな「怒り」があったはずだ。 巻末の、マネージャー的存在の城章子の文章の中に、「両方の先生の行き来がなくなった話」と聞いた人物の言葉としてこうある。 「あの頃、漫画を見ててわかったわよ」 「モーサマの絵柄が変わったから。登場人物の目が怒ってたの」 この本は注釈が細かく、読み始めてすぐのところで、里中満智子や青池保子にまで注釈が着いていて、「この本を手にする人間にこんな注釈は無用だろう」と思ったのだが、それは浅慮だった。 注釈のおかげで、「ささやななえ」が「ささやななえこ」と改名していたことを知り、作品を読んだことのある漫画家の中には、すでに故人となっている人もいることを知ることができた。 個別の作品には初出誌や発行時期が注としてつけられている。資料としての価値を重視したわけではなく、時系列をはっきりさせておきたいという意図があったのではないだろうか。 この本の中ではあまり触れられていないのだが、萩尾望都と両親の話は興味深い。 親には、何をしても否定されて育ってきたこと、親のために苦しんだことをインタビューなどで語っている。 ところが親の方では全くそれを理解していない。先に挙げた冊子の中でも、萩尾望都は両親に苦しめられたことを書いているのだが、同じ冊子に両親も寄稿していて、自分たちが娘の仕事を手伝ったというようなことを自慢して書いている。それがかえって娘を苦しめていたのに。 前書きで、この本の内容について、「人間関係失敗談です。」と述べている。親との関係も含めて「人間関係失敗談」なのではないかと思う。