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カテゴリ:ムーミン谷の星うらない
スナフキンと射手座の話・
1月4日になってやっと気付いて修正。大変失礼いたしました。 「指さす方角」に関連して、スナフキン話から少々脱線。 西洋占星術サイト『筋トレ』主宰の石井ゆかりさんが、著書『射手座』の中で 射手座の当番が非常に腑に落ちることを書いていました。78ページから 81ページ「大切なひと」の章です。 そこでは射手座さんたちが内に抱える虚空について書かれています。 射手座さんたちの心の中には、その中では永遠に孤独であるような空間、 埋まらない虚空があること。その虚空は、射手座さんたちの孤独の源であると同時に、 ちょうど望遠鏡の鏡筒(接眼レンズと対物レンズが両端に挟まっている、あの筒ですね) のように、それを通して世界を見るためにある中空なのだということ。孤独の彼方にある 微弱な光を見つけるために、その虚空があるのだということ。 『射手座』の中では、当番この箇所がいちばん腑に落ちました。 当番も、自分の中に暗く誰もいない空間があることを感じているからです。 ただ、当番の中の空間は全くの虚空ではなくて、水で満たされているのですが。 もう五年も前のことになりますが、当番はテントにおいて 「当番の中には、スーパーカミオカンデが入っている」と書いております。 当番の目と耳から入った言葉が頭の中の暗い空間を落ちていくとき、 記憶の井戸にストックされた言葉が新しく入ってきた言葉とぶつかって、 微弱な光や音を発するような感覚を覚えることが当番にはあります。 その光や音をキャッチできたと感じるとき、当番の心は喜びに震えます。 自分はそれを観測し、キャッチした言葉がぶつかるときの光や音のことを 誰かに伝えるためにここにいるのだと当番は思っています。 当番は、言葉の光をつかまえるために掘られた小さな井戸です。 『射手座』81ページには、こう書かれています。 あなた(当番註:射手座さん)を大切にする人は、あなたの虚空を埋める人ではなく、 あなたを通してその虚空の意味を感じ、理解し、それを見つめてくれる人です。 そして、そのかなたにある光を、最後まで一緒に信じてくれる人です。 もしかしたらこの箇所に関する当番の解釈は間違っているかもしれません。 「それを見つめてくれる人」というのはもしかしたら、虚空を抱えた射手座さんを、 そのままに見つめてくれる人という意味なのかもしれません。 しかし当番はこの箇所を、「自分という望遠鏡そのものではなくて、 自分が見つけた、虚空の彼方の光を一緒に見てくれる人」 「見せたいものは星をさす指ではなく、その先にある星なのだということを 理解してくれる人」と読んでしまいました。あくまで、著者の意図とは別の、 誤読であるかもしれない読み方です。『射手座』が当番の井戸に落ちたとき、 そんな音がしましたよ、というだけのお話です。 古井戸や 射手座飛び込む 水の音 「春のしらべ」とはあまり関係のないように思える射手座のシャイネスと 射手座が抱える虚空の話、そして当番の中にある古井戸の話でございましたが、 どっこい実は、関係あるのでございます。スナフキンの投げた小さな石と、 それが井戸に落ちて立てた小さな音のお話でございます。 スナフキンが一人で放っておいてほしくて苛々していることに、 名無しのはい虫はやっと気付きます。気まずい思いで立ち去ろうとするはい虫へ、 スナフキンが声をかけました。 スナフキンは、すこしもじもじしてから、いいました。 「チェーリオ。ねえ、きみ。きみのたずねた名まえだが、 たとえば、ティーティ=ウーじゃどうだね。ティーティ=ウー、 はじめはあかるくて、おわりはすこしかなしそうにおわるんだ」 ちいさいはい虫は、たき火の光をうつした黄色い目で、 じっとスナフキンをみつめました。虫はその名まえをよくよく考え、 あじわい、耳をかたむけ、いわばその中にもぐりこみました。 それから鼻づらを空にむけて、しずかにその新しい名まえを、 とてもかなしそうに、うっとりとさけんだのです ―スナフキンのせなかを、ぞくぞくっとふるえがつたわったほどに。 それから、茶色のしっぽが、ちょろちょろとやぶの中に消えて、 あたりはひっそりとしずまりました。 お礼の言葉もなく去ってしまいましたが、はい虫がなにやら 感動していたことだけは確かなようです。置いてけぼりのスナフキンは はい虫につままれた気分です。スナフキンはたき火を見つめながら 作曲を邪魔されたからといってちょっと愛想が悪すぎたかなあ、でも、 いつもファンサービスができるほど余裕があるわけじゃないんだ、 などと自分に言い訳をします。 そうして作曲モードに戻ろうとしたスナフキンは、どうしたわけか いつものようにあっさりと頭を切り替えることができなくなっていることに 気づきます。翌日になってもはい虫の言葉や表情が脳内でリピートされて、 彼はすっかり参ってしまいます。こんなに何かひとつのことにとらわれるなんて、 スナフキンにとっては初めてのことです。彼は自由を失ったと感じ、 自分は病気ではないかと思いつめます。 名無しのはい虫を自由を理解しないヤツだと上から目線で断定して、 軽くあしらおうとした報いでしょうか。何か未解決のことがあると感じた彼は、 いちかばちか、ティーティ=ウーとともう一度話をやりなおしてみようと 前夜のキャンプ地まで戻ってきました。そして彼は、運よくはい虫との 再会を果たしたのですが、ティーティ=ウーは以前の名無しのはい虫とは 全くの別虫に変身していました。 あれほどスナフキンに憧れ、スナフキンの迷惑を顧みずひとりで喋りまくり、 彼の音楽・彼の冒険話・彼に関する何もかもをを聴きたがっていた名無しのはい虫は、 いまや、他の誰かではないティーティ=ウーの人生を生きることに夢中です。 今までの時間を取り戻すため、うんと急いで生きなければならないという彼は、 もう一度話をしようというスナフキンの誘いをあっさりと蹴ってしまいます。 あまりの変わりぶりにスナフキンは面食らいますが、すぐに状況を理解します。 ティーティ=ウーはいま、誰でもない彼自身の、ほんとうの自由を得たんだ。 もう彼には、スナフキンは必要ないんだ。そしてスナフキンの方でも、 ティーティ=ウーのことで頭を一杯にしなくてもいいんだ、と。 ティーティ=ウーはスナフキンに自分の名を書いたしらかばの皮を見せ、 いつか自分の家を持つようになったら、これを表札にするのだと うっとりと語ります。スナフキンは彼のおしゃべりにのまれて、 ただただ「よかったね」と相槌をうつことしかできません。 不思議なことに、普段は立札看板の類をこよなく憎むスナフキン、 『ムーミン谷の十一月』ではヘムレンさんの作った「ムーミン谷」の 立札に速攻でブチきれたあのスナフキンが、ティーティ=ウーの「表札」には まったく怒りをあらわさず、祝福しているんですね。この場面のスナフキンは 自分がつけた名まえが予想外の展開を生み、はい虫の中から新しい自由人が 生まれ出たことに驚きと畏怖を感じているかのようです。 当番は、ティーティ=ウーとの再会がかなった後の、アワアワしながらも ちょっと謙虚な気持ちになっている(と、当番には見える)スナフキンが いちばん好きです。 文庫本でわずか20ページちょっとのこの短篇を読みかえすとき、 当番は飛び去るものと残るもののこと、そして作者と作品と その受け手のことについて考えます。先ほどの『射手座』(石井ゆかり)に 関する脱線に絡めて言えば、射手座さんの抱える虚空についてのことです。 石井ゆかりさんは「射手座は虚空を抱えている」と書きましたが、 当番は「その虚空は、射手座生まれ以外の人にもある」と思っています。 虚空でなければ、井戸です。言葉の蛙が飛び込む古井戸。星を映す井戸。 「ティーティ=ウー」という名まえ自体はスナフキンの作品です。 かなりやっつけ仕事気味の名まえではありますけれど(笑)。 その名まえが、名無しのはい虫の中からまったく新しいキャラクターを 引っぱり出すきっかけになりました。名が力を持ち、新しい名が人やモノに 新しい活力を吹き込むというのはちょっとM.エンデの『はてしない物語』における 救世主バスチアンや、旧約聖書における命名者・アダムの物語を思わせます。 しかし、その名によってはい虫の中から新しいキャラクターを引きだしたのは スナフキンではなくはい虫自身です。スナフキンが与えた名前は、 名無しのはい虫の中に埋もれていた自由なはい虫・ティーティ=ウーを 引っぱり出すフックに過ぎません。 名まえそのものはスナフキンの作品であり、その名を考えたのは スナフキンの力であっても、自由なはい虫ティーティ=ウーは 誰の作品かと敢えて問うとすればティーティ=ウー自身の作品であり、 それを生み出した力はティーティ=ウー本人のもの、としか言いようがありません。 『ムーミン谷の十一月』でスナフキンがヘムレンさんを海に連れ出した時と違って、 スナフキンは名無しのはい虫を自由なはい虫に変身させてやろうと思って 名づけたわけではありません。スナフキンとはい虫との会話の流れからみても 彼の名づけは弾まなかった会話へのちょっとしたお詫びの気持ち程度のものです。 よくて毎年秋に、彼がムーミン谷から旅立つ時にムーミントロール宛に残して行く 置手紙と同レベルの軽い贈り物ではないかと当番は思います。 ティーティ=ウーという名は、夜に林の中で鳴く鳥の声をきいて そこからスナフキンが思いついたものです。スナフキンは、眼や耳を通して 彼の井戸の中に落ちてくる光や音が、彼の中の言葉とぶつかって立てる 小さな光や音に耳を澄ませ、それを掬い上げます。彼の井戸から 再び出てきたとき、鳥の声は彼の作品に変わります。 その小さな作品は小石となって、はい虫の井戸に落とされます。 元・名無しのはい虫は、名まえをもらった瞬間、その響きを味わい、耳をかたむけ、 いわばその中にもぐりこんだ、とトーベ・ヤンソンさんは描写しています。 彼は、スナフキンのくれた名が自分の井戸水とぶつかって立てる音に 耳を澄ましていたのだと当番は思います。 そして名無しのはい虫は、その音を確かに聞き取りました。 その瞬間、ティーティ=ウーは生まれ、元・名無しのはい虫は 憧れの人の指し示す指ではなく、彼が指し示す星をたしかに見たのです。 ティーティ=ウーの言葉、その目の輝きが新たな小石となって スナフキンの胸にコトンと落ち、その反響に耳を傾けたスナフキンは ティーティ=ウーと自分とのお別れの時が来たのを知ります。 以前のような気まずい別れではなく、納得しあってのさよなら、 お互いからの旅立ちです。 どんな願いを込めて石を投げ込んだとしても、井戸の持ち主が 目をひらき、耳をかたむけ、自分の中に飛び込んでくるものと、 既に自分の中にあるものとがぶつかり合う時に生まれる光や音を キャッチしようと思わない限り、何も起こらないのと同じことです。 スナフキンはそれを知っています。だからスナフキンは 「あのはい虫を変身させてやったのは僕だぞ」などとくだらないことは考えません。 彼は再びティーティ=ウーのことを心から追い出して、ひとりの時間を満喫します。 かれのぼうしの下のどこかで、あのしらべがうごきはじめました。 ――第一部はあこがれ、第二部と第三部は春のかなしみ、 それから、そうです、たったひとりでいることの、 大きな大きなよろこびでした。 長くて申し訳ない、射手座のスナフキン篇はまだまだ続きます。 ただし、1月2日と3日は当番所用で留守にいたします。 続きは4日以降に更新予定です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2014.11.29 20:15:30
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