7729677 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

「きらりの旅日記」

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カレンダー

プロフィール

ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2017.12.27
XML
カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​【世界遺産】ヴァチカン「ピオ・クレメンティーノ美術館」八角形の中庭(ベルヴェデーレの中庭)一番有名な『ラオコーン』Laocoonte 


いよいよ・・・ラオコーンですよ(^0^)V


ベルヴェデーレで「ラオコーン」をおとめ座独り占めとはグッド


何と言う幸せな事でしょう~~音符


Pio-Clementino Cortile Ottagono Laocoonte



きらりのわがまま『ヴァチカン旅日記』ラオコーン


『ラオコーン』Laocoonte 古代ギリシアの大理石製の彫像なんと~誰もおりません上向き矢印


ラオコーン様のダイナミックさ!!


1506年にコロッセオ近くの


エスクィリーノの丘から発見され直後に


ユリウス2世がお買い上げさいふコレクションに加えられた。


1世紀後半、ティトゥス帝の要望で


ロードスのギリシア人が


ローマに来て彫ったと記録が残っている。


題材は・・・


「ギリシア人が差し出した馬に馬

トロイアの司祭であったラオコーンが槍で一撃したため

怒ったアテナへが蛇を送って

ラオコーンとふたりの息子を殺した」


というエピソードに基づいている。


苦悩と絶望と最後の必死の抵抗が


そのまま凍りついたようなポーズは、インパクトがあります。


ローマ・ギリシア文化の復興を目指した


ルネッサンス期の芸術家、とりわけ


「ミケランジェロ」に大きな影響を与えた。





ラオコーン像・・・とは?


『ラオコーン像』 Gruppo del Laocoonte


バチカン美術館のピオ・クレメンティーノ美術館に所蔵されている


古代ギリシアの大理石製の彫像。


ギリシア神話のトロイアの神官ラオコーンと


その2人の息子が海蛇に巻き付かれている情景を彫刻にした作品である。


古代ローマの博物家プリニウスによると、


この彫像の作者はロドス島出身の


アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの三人の彫刻家であるとしている。 


・・・歴史・・・

ラオコーンの物語は

今は現存していないソポクレスの悲劇作品の主題になっていたと、

他のギリシア人作家が書き残している。

ラオコーンは槍を投げつけることによって

トロイの木馬がギリシア軍の計略であることを暴露しようとしたが、

女神アテナによって遣わされた海蛇に襲われて彼の2人の息子と共に殺された。

そしてトロイア人たちはこの木馬が聖なるものであると信じ込んだ。

この一連の物語を題材に書かれた有名な書物に、

古代ローマの詩人ウェルギリウスの『アエネーイス』があるが、

おそらくはその執筆以前にこの像は制作されている。

『ラオコーン像』の制作年度については、

紀元前160年から紀元前20年までさまざまな見解がある。

ロドス島のリンドスで出土した碑文では、

彫像の製作者と推定されているアゲサンドロス、アテノドロスの名前が

紀元前42年以降に記載されている。

このため紀元前42年から紀元前20年ごろに

制作されたのではないかと考えられている。

この作品がオリジナルの彫像なのか、

他の彫像の模倣なのかは判明していない。

製作者とされる3人のロドス人は模倣を専門にした彫刻家で、

紀元前200年にペルガモン王国で制作された銅像が

オリジナルであるとする意見もある。

プリニウスはその著書『博物誌 (XXXVI, 37)』で、

『ラオコーン像』がローマ皇帝ティトゥスの宮殿に置かれていたと書いている。

一塊の大理石から彫りだされているとも書いているが、

後年発掘されたこの彫像は7つのパーツが組み合わされて出来ていた。 


この彫像はもともとは富裕なローマ市民の依頼で制作されたと考えられている。

1506年にローマ皇帝ネロの大宮殿ドムス・アウレアの近くから

『ラオコーン像』が出土したときに、

自身熱心な古典学者でもあったローマ教皇ユリウス2世が入手し、

この像を現在のバチカン美術館の一部にあたる庭園に置いた。

2005年には、この彫像が

ルネサンス期の芸術家ミケランジェロによる贋作ではないかという主張があった。

『My Laocoön』の著者でもある美術史家のリチャード・ブリリアントはこの主張に対して

「あらゆる意味で馬鹿げている』とした。

・・・修復・・・

『ラオコーン像』が発掘されたときには

ラオコーンの右腕や左右の息子たちの腕や手は損壊し、失われていた。

当時の芸術家や鑑定家たちは、

失われた腕がもともとどのような形だったのかを議論している。

ミケランジェロは、

ラオコーンの右腕は肩を越えて背中に回っていたのではないかと考えた。

逆に、右腕は大きく広げられている方が英雄の像としては相応しいとする者もいた。

教皇は非公式なコンテストを企画し、

失われた腕がどのようなものだったかの案を彫刻家たちに命じて、

ラファエロに審査させている。

その結果、ラオコーンの右腕は

大きく伸ばされた状態が相応しいと判断され、

新しく伸ばされた腕の状態で修復された。

1906年に考古学者・美術商で

バッラッコ美術館長ルートヴィヒ・ポラックが、

ローマで大理石で出来た右腕の破片の彫刻を発見する。

『ラオコーン像』と様式が似ているとして

バチカン美術館に右腕の彫刻を持ち込んだが、

バチカン美術館はその右腕を半世紀にわたって放置していた。

1950年代になってからバチカン美術館は、

この右腕がオリジナルの『ラオコーン像』のものであり、

ミケランジェロが推測したように

右腕は曲がっていたという鑑定結果を出した。

彫像は一旦解体され、

この曲がった右腕が新しく取り付けられて再び組み直された。

このとき、以前の修復で取り付けられた二人の息子の腕と手は再び除去されている。

この彫像には多くのコピーが存在しており、

有名なものにロドス島のマルタ騎士団本部の彫像がある。

現在もラオコーンが腕を伸ばしている、

以前の状態でのコピーがあるが、

ロドス島の彫像はバチカンでの修復にあわせて変更されている。

・・・影響・・・

『ラオコーン像』の発見はイタリアの彫刻家にとって大きな衝撃であり、

イタリア・ルネサンス芸術の方向性に極めて重大な影響を与えた。

ミケランジェロの筋肉美を強調した作品群とその官能的なヘレニズム風様式、

特に男性裸像の表現はよく知られている。


『ラオコーン像』の影響はミケランジェロの後期の作品に顕著で、

教皇ユリウス2世の墓碑のための『反抗する奴隷』

『瀕死の奴隷』の2彫刻が例としてあげられる。

この彫刻の気品あふれる悲劇性は

ドイツの詩人・思想家ゴットホルト・エフライム・レッシングの

文学・美学のエッセイのテーマの一つで、

その著書『ラオコーン Laokoön』は

最初期の古代美術論争の一つ「ラオコオン論争」を巻き起こした。 

・・・説明おわり・・・





ラオコーンにおとめ座ぽち右矢印にほんブログ村 旅行ブログ 世界遺産へ










お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2017.12.27 00:00:37
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X