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カテゴリ:美術館・博物館
ルーヴル美術館の最上階は、北部ヨーロッパ絵画で「ルーベンス」の部屋もありました(^0^)♪
入口のプレートには・・・フランス語で2階、日本で言う3階にあたります ![]() 2’etage Peintures Ecoles du Nord ![]() Salle Rubens:18 La Galerie Medicis きらりのわがまま「パリ旅日記」・・・第122回 18室【ルーベンスの部屋】Salle Rubens ルーベンス・・・とは? ピーテル・パウル・ルーベンス Peter Paul Rubens アニメ「フランダースの犬」で主人公ネロが見たがっていた絵画 アントウェルペン大聖堂の「キリストの昇架」と「キリストの降架」 の作者として日本でも有名になった画家『ルーベンス』であります ![]() バロック期 フランドルの画家 外交官 祭壇画、肖像画、風景画、神話画、寓意画、歴史画を描く 1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没) 王の画家であり 画家の ![]() ![]() 諸外国まで名声を轟かせ バロック期を代表する画家である。 修業時代は・・・ 風景画家「フェルハーヒト」「アダム・ファン・ノールト」「ファン・フェーン」と 三人の師から絵画を学ぶ 1600年~1608年、イタリアで・・・ ミケランジェロの肉体表現 ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現 テッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等「ヴェネツィア派」から 豊かな色彩による画面構成、 コレッジョからの甘美的な表現など ルネサンス芸術を研究する一方 イエズス会との接触を図る イタリアでの滞在で一気に才能が開花し 社交性もあったルーベンスは・・・ ヴェネツィアの外交使節として 名画を寄贈するためスペインに向うが 途中、大雨により名画を濡らしてしまう。 しかし、ルーベンス自身が修復する。 その出来栄えの良さに・・・ スペイン国王は勿論、イタリア貴族からも賛辞を受ける。 1608年、当時アントワープを統治していた ハウスブルグ家アルブレヒト大公夫妻に宮殿画家として仕え 「ヴァン・ダイク」「ヤン・ブリューゲル」等と共に次々と作品を制作する。 総作品数は・・・約1200点 ![]() 膨大な作品が残っているが 大半は「ルーベンス工房」の作品か、他作家との共作である。 ルーベンスの画家としての優れた才能や、 洗練された友好的な態度によって イザベラ大公妃を始め フランス王妃マリー・メディシスやフェリペ4世など 当時の権力者とも交友関係を築き 使節として国交の正常化に尽くすほか 歳の離れたスペイン・バロックの巨匠「ベラスケス」とも交流を持つ カラヴァッジョの『キリストの屈葬』や ティツィアーノの『ヴィーナスへの捧げもの』 レオナルド・ダ・ヴィンチの現在は失われた『アンギリアの戦い』など ルーベンス自らが描いた巨匠たちの模写も多く残されている。 そんなルーベンスの作品と、工房作品と、共同で描かれた作品が多く収蔵されており まず「ルーヴル美術館」ルーベンスの見事な作品は Pierre Paul RUBENS Siegen(Allemagne actulle),1577‐ Anvers(Belgique Actuelle),1640 ![]() Le demi‐dieu Hercule et Omphale, reine de Lydie(actuelle turquie) Vers 1606‐1607. 「ヘラクレスとオンファレの恋」・・・とは? 友人のひとりを殺害したことに対する 罪の償いしようとするヘラクレスに アポロンの神託は、 リュディアの王女オンファレの元に仕えるようにと告げる。 女王は、ゼウスの息子であり無敵の力を持つ英雄に 罪を償うための数々の功業を命じた。 そして英雄の逞しい美しさに魅了された女王オンファレは、 ヘラクレスを夫として迎える。と・・・ ギリシア・ローマの神話を題材にした絵画。 Pierre Paul RUBENS Siegen(Allemagne actulle),1577‐ Anvers(Belgique Actuelle),1640 ![]() L’Adoration des Mages,1626‐1627 ルーベンス作『マギの礼拝』東方三博士の礼拝(1626年‐1627年) ヤン・リーフェンス⇒ルーベンスのライバル? Jan LIEVENS Leyde(Pays‐Bas),1607‐ Amsterdam(Pays‐Bas),1674 ![]() La Vierge Rendant visite a Elisabeth ou La Visitation,vers 1638‐1640 ヤン・リーフェンス・・・とは? Jan Lievens オランダの画家 レンブラントと同じ工房で競い合って居た事で有名 1607年10月24日-1674年6月4日(66歳没) 1607年10月24日、ライデン生まれ リーフェンスの父親は、タペストリー職人であった。 10歳頃に「ピーテル・ラストマン」の元で2年間修業 12最の時には、一人前の画家として活動し始めた。 若くして才能を認められたリーフェンスは、神童として有名だった。 コルネリス・ファン・ハールレムの模写「デモクリストスとヘラクレスト」と 自身の母親の肖像画で高い評価を得ていた。 マウリッツ「オラニエ公」に作品に認められ・・・ 1620年頃には、若い男性が読書する等身大の作品を購入している。 リーフェンスは・・・ 自分の作品を英国大使に渡し ジェームス1世(イングランド王)に献上されるようにした。 31歳で、イングランド宮廷に招かれる。 イングランドから戻り、アントワープへ 1638年、結婚 当時は、貴族や市民から多くの依頼を受けていた。 ライデン市庁舎の為に『スキピオの自制』 1626年~1631年、レンブラントと共同で工房を構えた。 二人が競作した作品は、 素描やエッチングを含めると24点 リーフェンスは・・・ 等身大の作品に優れ ドラマチックな構成は、カラヴァッジョからの影響が見られる。 二人は、1631年に別れ レンブラントは・・・アムステルダムに リーフェンスは・・・イングランドに移る。 イングランド時代には・・・ 『第21代アランデル伯トマス・ハワードの肖像』を描き アンソニー・ヴァン・ダイクの影響を受けた。 アントワープでは・・・ アドリアーン・ブラウエルと共同制作した。 デン・ハーグとベルリンで宮殿画家として活躍 1655年、アムステルダムに戻る 1948年、妻と死別し、ヤン・デ・ブライの姉妹と再婚 1672年以降、経済的な問題を抱える、死後には、借金を残す。 Pierre Paul RUBENS Siegen(Allemagne actulle),1577‐ Anvers(Belgique Actuelle),1640 ![]() Les Trois Parques filant et Le Triomphe de La Verite vers 1622 ルーベンスは・・・ アントェルペンで大規模な工房を経営し 生み出された作品は、 ヨーロッパ貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。 また、ルーベンスは、 画家としてだけでなく、古典的知識を持つ 人文主義学者、美術品収集家でもあり、 さらに7か国語を話し 外交官としても活躍して ![]() ![]() ルーベンスの作品と、ほぼ同じもの ルーベンス工房により制作されております ![]() ルーベンス工房『貢の銭』 ![]() ルーベンス工房の作と思われる ![]() 「ルーヴル美術館」の同じ展示室には・・・ ルーベンスと度々、共同制作をした画家さんの作品も並びます ![]() テオドール・ファン・テュルデン ![]() Theodore van THULDEN テオドール・ファン・テュルデン・・・とは? Theodore van THULDEN オランダのバロック期の画家、版画家 ルーベンスの共同制作が多く、そのスタイルはルーベンスの影響を強く受けている。 1606年‐1669年7月12日 北ブラバント州スヘルトーヘンボス出身 1626年、アントワープ「聖ルカ組合」に親方として登録 ファン・テュルデンは、 画家ヘンドリック・ファン・バーレンの娘マリア・ファン・バーレンと結婚 1621年頃、アントワープに移る 1631年~1633年、フランス滞在 フォォンテーヌブロー宮殿で・・・ 「フランチェスコ・プリマチィッチ」や「ニコロ・デッラバーテ」等の マニエルスム芸術の模写をした後、パリで活動した。 1634年、アントワープに戻り、ルーベンスと共に働く 1635年、フェルナンド・デ・アウストリアの入市式典のために ルーベンスが手掛けた装飾をエングレービングにしたもの。 1637年、マドリッドのフェリペ4世の狩猟館トーレ・デ・ラ・パラダを飾る神話画 1640年、北ブラバント州に戻り、 市議会やパトロンからの依頼で祭壇画の依頼を多く受ける。 政治的な寓意画も制作した。 ハウステンボス宮殿の装飾にも関わった。 ![]() ・・・つづく・・・ ルーヴル美術館日記に ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2018.09.04 00:10:16
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