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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2018.09.04
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ルーヴル美術館の最上階は、北部ヨーロッパ絵画で「ルーベンス」の部屋もありました(^0^)♪


入口のプレートには・・・フランス語で2階、日本で言う3階にあたりますスマイル


2’etage Peintures Ecoles du Nord

Salle Rubens:18 La Galerie Medicis


きらりのわがまま「パリ旅日記」・・・第122回


18室【ルーベンスの部屋】Salle Rubens


ルーベンス・・・とは?

ピーテル・パウル・ルーベンス
Peter Paul Rubens


アニメ「フランダースの犬」で主人公ネロが見たがっていた絵画

アントウェルペン大聖堂の「キリストの昇架」と「キリストの降架」

の作者として日本でも有名になった画家『ルーベンス』でありますグッド


バロック期 フランドルの画家 外交官 

祭壇画、肖像画、風景画、神話画、寓意画、歴史画を描く

1577年6月28日-1640年5月30日(62歳没)


王の画家であり

画家の王冠王と呼ばれた!

諸外国まで名声を轟かせ

バロック期を代表する画家である。

修業時代は・・・

風景画家「フェルハーヒト」「アダム・ファン・ノールト」「ファン・フェーン」と

三人の師から絵画を学ぶ

1600年~1608年、イタリアで・・・

ミケランジェロの肉体表現

ラファエロやマンテーニャの古典思想的表現

テッツィアーノ、ティントレット、ヴェロネーゼ等「ヴェネツィア派」から

豊かな色彩による画面構成、

コレッジョからの甘美的な表現など

ルネサンス芸術を研究する一方

イエズス会との接触を図る

イタリアでの滞在で一気に才能が開花し

社交性もあったルーベンスは・・・

ヴェネツィアの外交使節として

名画を寄贈するためスペインに向うが

途中、大雨により名画を濡らしてしまう。

しかし、ルーベンス自身が修復する。

その出来栄えの良さに・・・

スペイン国王は勿論、イタリア貴族からも賛辞を受ける。

1608年、当時アントワープを統治していた

ハウスブルグ家アルブレヒト大公夫妻に宮殿画家として仕え


「ヴァン・ダイク」「ヤン・ブリューゲル」等と共に次々と作品を制作する。

総作品数は・・・約1200点びっくり

膨大な作品が残っているが

大半は「ルーベンス工房」の作品か、他作家との共作である。


ルーベンスの画家としての優れた才能や、

洗練された友好的な態度によって

イザベラ大公妃を始め

フランス王妃マリー・メディシスやフェリペ4世など

当時の権力者とも交友関係を築き

使節として国交の正常化に尽くすほか

歳の離れたスペイン・バロックの巨匠「ベラスケス」とも交流を持つ


カラヴァッジョの『キリストの屈葬』や

ティツィアーノの『ヴィーナスへの捧げもの』

レオナルド・ダ・ヴィンチの現在は失われた『アンギリアの戦い』など

ルーベンス自らが描いた巨匠たちの模写も多く残されている。


そんなルーベンスの作品と、工房作品と、共同で描かれた作品が多く収蔵されており

まず「ルーヴル美術館」ルーベンスの見事な作品は

Pierre Paul RUBENS
Siegen(Allemagne actulle),1577‐
Anvers(Belgique Actuelle),1640

Le demi‐dieu Hercule et Omphale,
reine de Lydie(actuelle turquie)
Vers 1606‐1607.


「ヘラクレスとオンファレの恋」・・・とは?


友人のひとりを殺害したことに対する

罪の償いしようとするヘラクレスに

アポロンの神託は、

リュディアの王女オンファレの元に仕えるようにと告げる。

女王は、ゼウスの息子であり無敵の力を持つ英雄に

罪を償うための数々の功業を命じた。

そして英雄の逞しい美しさに魅了された女王オンファレは、

ヘラクレスを夫として迎える。と・・・

ギリシア・ローマの神話を題材にした絵画。


Pierre Paul RUBENS
Siegen(Allemagne actulle),1577‐
Anvers(Belgique Actuelle),1640

L’Adoration des Mages,1626‐1627

ルーベンス作『マギの礼拝』東方三博士の礼拝(1626年‐1627年)



​ヤン・リーフェンス⇒ルーベンスのライバル?​

Jan LIEVENS
Leyde(Pays‐Bas),1607‐
Amsterdam(Pays‐Bas),1674

La Vierge Rendant visite a Elisabeth
ou La Visitation,vers 1638‐1640


ヤン・リーフェンス・・・とは?
Jan Lievens

オランダの画家

レンブラントと同じ工房で競い合って居た事で有名

1607年10月24日-1674年6月4日(66歳没)

1607年10月24日、ライデン生まれ


リーフェンスの父親は、タペストリー職人であった。

10歳頃に「ピーテル・ラストマン」の元で2年間修業

12最の時には、一人前の画家として活動し始めた。


若くして才能を認められたリーフェンスは、神童として有名だった。

コルネリス・ファン・ハールレムの模写「デモクリストスとヘラクレスト」と

自身の母親の肖像画で高い評価を得ていた。


マウリッツ「オラニエ公」に作品に認められ・・・

1620年頃には、若い男性が読書する等身大の作品を購入している。


リーフェンスは・・・

自分の作品を英国大使に渡し

ジェームス1世(イングランド王)に献上されるようにした。

31歳で、イングランド宮廷に招かれる。


イングランドから戻り、アントワープへ

1638年、結婚

当時は、貴族や市民から多くの依頼を受けていた。

ライデン市庁舎の為に『スキピオの自制』


1626年~1631年、レンブラントと共同で工房を構えた。

二人が競作した作品は、

素描やエッチングを含めると24点

リーフェンスは・・・

等身大の作品に優れ

ドラマチックな構成は、カラヴァッジョからの影響が見られる。


二人は、1631年に別れ

レンブラントは・・・アムステルダムに

リーフェンスは・・・イングランドに移る。


イングランド時代には・・・

『第21代アランデル伯トマス・ハワードの肖像』を描き

アンソニー・ヴァン・ダイクの影響を受けた。

アントワープでは・・・

アドリアーン・ブラウエルと共同制作した。

デン・ハーグとベルリンで宮殿画家として活躍

1655年、アムステルダムに戻る

1948年、妻と死別し、ヤン・デ・ブライの姉妹と再婚

1672年以降、経済的な問題を抱える、死後には、借金を残す。


Pierre Paul RUBENS
Siegen(Allemagne actulle),1577‐
Anvers(Belgique Actuelle),1640

Les Trois Parques filant et
Le Triomphe de La Verite
vers 1622


ルーベンスは・・・

アントェルペンで大規模な工房を経営し

生み出された作品は、

ヨーロッパ貴族階級や収集家間でも高く評価されていた。

また、ルーベンスは、

画家としてだけでなく、古典的知識を持つ

人文主義学者、美術品収集家でもあり、

さらに7か国語を話し

外交官としても活躍して

王冠スペイン王フェリペ4世と

王冠イングランド王チャールズ1世からナイトの爵位を受けている。


ルーベンスの作品と、ほぼ同じもの

ルーベンス工房により制作されております下向き矢印

ルーベンス工房『貢の銭』

ルーベンス工房の作と思われる!?


「ルーヴル美術館」の同じ展示室には・・・

ルーベンスと度々、共同制作をした画家さんの作品も並びます音符

テオドール・ファン・テュルデン

Theodore van THULDEN


​テオドール・ファン・テュルデン・・・とは?
Theodore van THULDEN​​


オランダのバロック期の画家、版画家

ルーベンスの共同制作が多く、そのスタイルはルーベンスの影響を強く受けている。

1606年‐1669年7月12日

北ブラバント州スヘルトーヘンボス出身

1626年、アントワープ「聖ルカ組合」に親方として登録

ファン・テュルデンは、

画家ヘンドリック・ファン・バーレンの娘マリア・ファン・バーレンと結婚

1621年頃、アントワープに移る


1631年~1633年、フランス滞在

フォォンテーヌブロー宮殿で・・・

「フランチェスコ・プリマチィッチ」や「ニコロ・デッラバーテ」等の

マニエルスム芸術の模写をした後、パリで活動した。


1634年、アントワープに戻り、ルーベンスと共に働く

1635年、フェルナンド・デ・アウストリアの入市式典のために

ルーベンスが手掛けた装飾をエングレービングにしたもの。


1637年、マドリッドのフェリペ4世の狩猟館トーレ・デ・ラ・パラダを飾る神話画

1640年、北ブラバント州に戻り、

市議会やパトロンからの依頼で祭壇画の依頼を多く受ける。

政治的な寓意画も制作した。

ハウステンボス宮殿の装飾にも関わった。



・・・つづく・・・
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最終更新日  2018.09.04 00:10:16
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