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「きらりの旅日記」

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ほしのきらり。

ほしのきらり。

カテゴリ

2019.05.29
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カテゴリ:美術館・博物館
​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​​ベルギーを旅したのは2019年4月9日~16日であります♪一番の楽しみは王立美術館であり、昨年から北方ヨーロッパ絵画を集中的に学ぶ旅をしております。古典美術館では「ウェイデン」の作品に出会えましたスマイルスマイル


きらりのわがまま『ベルギー旅日記』・・・第32回


ブリッセル王立美術館・2階・古典美術館【70展示室】

手書きハートウェイデン手書きハート
ローヒル・ファン・デル・ウェイデン作
ROGIER VAN DER WEYDEN
Doornik 1399・1400-Brussel 1464

PORTRET VAN ANTOON VAN BOURGONDIE
1421・1422-1504

​『ブルゴーニュ公庶子アントニーの肖像』1460年頃​


裏側の肖像画も・・・観ましょう!
ウェイデン作
ROGIER VAN DER WEYDEN
Doornik 1399・1400-Brussel 1464

PORTRET VAN JEAN DEFROIMONT
ca.1460

(裏側の肖像画)およそ1460年作


ウェイデン・・・とは?

ローヒル・ファン・デル・ウェイデン
Rogier van der Weyden

ロジェ・ド・ラ・バステュール1399年?1400年生まれ-

ブルゴーニュ領ネーデルラント・ブリッセルにて1664年6月18日没

ベルギー人。

初期フランドル派の画家。

キリスト教的主題を描いた祭壇画・肖像画を作成。

当時、最も成功し国際的に名声を得た画家であった。


ブルゴーニュ公フィリップ3世など

ネーデルラントの貴族階級や

諸外国の王侯貴族から絵画制作の依頼を多く受けるが

17世紀、バロック美術が台頭したために人気を失うも

18世紀半ばには忘れさられるが

その後200年の間に徐々に再評価され

現在では、ロベルト・カンビン,ヤン・ファン・エイクと共に

初期フランドル派を代表する三大巨匠として認識される。

15世紀、ヨーロッパ北方絵画で最も影響力を与えた画家である。


ファン・デル・ウェイデンは・・・

現在のベルギーにあたる

ブルゴーニュ領ネーデルラント・トゥルネーに生まれる。

ウェイデンについては、ほとんどが不明であります。


1399年か?1400年に生まれたらしく?

父は、ヘンリ・デ・レ・パストゥル

母は、アニエス・デ・ワットルローである。


ファン・デル・ウェイデンは・・・

1420年頃、エリザベート・ホッファールと結婚。

1436年、ブリッセルの公式画家となる。

この時に自身の名前をフランス風からオランダ風の名前

「ファン・デル・ウェイデン」に改めたと思われるが

それ以外の情報が少なく謎多き画家であります。


ファン・デル・ウェイデンは、自画像を描いておらず

重要な作品の多くが不人気となった17世紀後半に失われる。


ファン・デル・ウェイデンの最初期は・・・

1427年~1432年、ロベルト・カンビンのもとで修行。

間もなく師の技量を上回り最終的に

カンビンの作品に影響を及ぼす程に優れた技術を身に付ける。

(ファン・デル・ウェイデンがカンビンの弟子であったかも疑問である)


ファン・デル・ウェイデンは、徒弟期間を終え

トゥルネーの芸術ギルド聖ルカ組合にマイスターとして登録。

1435年に移住したブリッセルに置いて

卓越した技術と感情豊かな筆使い

色彩感覚は、すぐさま高い評価を受けるようになる。


1435年、代表作『十字架降架』を描きあげ

北ヨーロッパで最も人気があり

影響力が高い画家であるという不動の評価を得る。



ファン・デル・ウェイデンは・・・

人物像を描く時に実在の人物をモデルにした。

その観察力は、非常に高かったが

表情などモデルの特定の要素を

優雅に理想化して描くことも多く

特に三連祭壇画に描かれた人物像にその傾向が強い。

常に豊麗で温かみのある色使いで

感情豊かな人物像を描いているが

作品に感じられる哀愁感と写実主義でも高く評価された。

ファン・デル・ウェイデンの肖像画の多くは、

上半身のみで斜め前を向いた作品で

宗教的な祭壇画と同じように好んでよく描かれている。

ファン・デル・ウェイデンは、

異例なまでに多くの色と様々な色調を用いて絵画を描いた。

最も優れた作品では、一箇所として同じ色調は見られず

白色でさえも様々な階調で塗り分けられているのであります。

白色が見事に塗られた・・・そうそう!?

「ウェイデン」と言うと下向き矢印この絵画を思い出してしまう私おとめ座

Portrait of a Lady(1460)

『女性の肖像』1460年頃 34.0cm×25.5cm
【ワシントン・ナショナル・ギャラリー】にて


ファン・デル・ウェイデンの

父ヘンリは、刃物職人でありました。

ファン・デル・ウェイデンは・・・

1426年、ブリッセルの靴職人ヤン・ホッファールトと

妻カテリーナ・ファン・ストケムの娘エリザベトと結婚。

2人の間には、

後にカルトジオ会修道僧になった息子コルネリウス(1427年)、

娘マルガリータ(1432年),ここで2人の子どもを持つ。

1435年10月21日までに

ファン・デル・ウェイデン一家は、ブリッセルに移住して

ピーテル(1437年)とヤン(1438年)と2人の息子が生まれる。

1436年、ブリュツセル公式画家の称号を得る。

当時のブリュツセルは・・・

ブルゴーニュ公家の荘厳な宮殿が置かれていた重要な都市であり

ファン・デル・ウェイデンが手にした地位は、

非常に名誉なものであった。


ブリッセルは、オランダ語圏であり

ファン・デル・ウェイデンは、それまでの名前

ロジェッ・ド・ラ・バスティール
(=牧場のロジェ)


というフランス語の名前をオランダ語に訳した

​ローヒル・ファン・デル・ウェイデン
(=牧場のロヒール)​


に改めている。


ファン・デン・ウェイデンの修業時代の記録は少なく

第二次世界大戦で全て失われたために

美術史家によって解釈が異なっております。


数少ないウェイデンの記録としては・・・

1427年3月17日、トゥルネー市議会が

「マイスターのジェ・ド・ラ・パトゥーラ」を祝って
(ローヒル・ファン・デル・ウェイデンの旧氏名)

ワインを贈ったという記録が残るが

1428年3月5日、聖ルカ組合の記録では、

「ロジェ・ド・ラ・パステュール」がジャック・ダレーとともに

ロベルト・カンビンの工房に弟子入りしている。


という記載があるが・・・

この時点ですでに「ド・ラ・パストゥール」は、

独り立ちした画家として認められていたはずである!

それは、カンビンに弟子入りしてから5年後の

1432年8月1日に「ド・ラ・バステュール」は、

画家のマイスターの称号を得ている。


すでに独り立ちした「ド・ラ・バステュール」が

再び徒弟として修行を積んだ理由として

1420年代のトゥルーネは、非常に混乱していた時代で

当時の芸術家ギルドも充分に機能していなかったためではないか?

と考えられる。


同時期にカンビンに弟子入りしたジャック・ダレーは、

20代の間修行を続け、少なくとも

10年以上カンビンのもとで過ごしている。


ファン・デル・ウェイデンが・・・

画家としてマイスターになる前に

別の学術的組織からマイスターの称号を授与されており

トゥルーネの市議会からワインを贈られたというのは

後者のマイスター獲得のお祝いだったという可能性もある?


ファン・デル・ウェイデンの作品における

洗練された「学術的造詣の深い」

図像学的特徴と構成とを兼ね備えた高品質の作風が

この仮説を裏付ける根拠とされることがある。


ファン・デル・ウェイデンの・・・

後半生における社会的文化的な地位は、

当時の単なる専門職人の地位を遥かに上回るものであった。

ダレーが、カンビンの弟子だったとは記録の上から明らかであり

カンビンの作品ではないかと考えられる絵画と

ファン・デル・ウェイデンの作風がよく似ているということから

ダレーと同時にカンビンに弟子入りした「ロジェ・ド・ラ・バステュール」が

ローヒル・ファン・デル・ウェイデンだったという説の

裏付けの一つにもなっている。


トゥールネーに残るロジェ・ド・ラ・バステュールの最後の記録は

1435年10月21日のもので・・・

「現在ブリツセルに在住」という記述である。

そして同時に

「ローヒル・デル・ウェイデン」に関する最初の記録として

ブリッセルの公式画家となったというものがある。


この2つの記録こそが、カンビンのもとで修行していた

「ロジェ・ド・ラ・バステュール」が

「ローヒル・ファン・デル・ウェイデン」と同一人物で

同じ画家を指しているという考えの最大の根拠となっている。


ブリッセルの公式画家という地位は、

ファン・デル・ウェイデンのために特に新設されたもので

ファン・デル・ウェイデンの死去とともに廃止されている。

これは、おそらくファン・デル・ウェイデンが依頼を受け

ブリュッセル市庁舎の「黄金の議場」に描いた

大規模な4点の裁きの情景の画家と何らかの関係性がある。


ファン・デル・ウェイデンが所有する様々な

資産や不動産に関する記録や証拠が残っており

当時の経済的に成功していることも

当時のネーデルラント上流階級と

密接な関係を築いていたことを証明している。


『ミラフロレスの祭壇画』は・・・

カスティーリャ王ファン2世の依頼によって

描かれたと考えられており、完成後の

1455年、ファン2世がミラフロレス修道院に寄進したものである。


ファン・デル・ウェイデンは、聖年の

1450年、ローマへ巡礼の旅に立ち

イタリア人の芸術家、パトロンたちの知己を得て

エステ家、メディチ家といった大貴族が

ファン・デル・ウェイデンから絵画を購入している。


ミラノ女公ビアンカ・マリーア・ヴィスコンティは、

自身の宮廷画家だったザネット・ブガッティを

ブリュッセルのファン・デル・ウェイデンの工房で修行させるなど

当時のファン・デル・ウェイデンの

国際的な評価は非常に高くなっていた。


ニコラウス・クザーヌス、アントニオ・フィラレーテのような

1450年代~1460年代の著名な学者たちが

ファン・デル・ウェイデンを

「最高」、「最も素晴らしい」画家であると評している。


ファン・デル・ウェイデンは、

1464年7月18日に死去。

聖ミシェル・エ・ギュデル大聖堂の

聖カテリナ礼拝堂に屈葬された。
(資料=ウィキペディア様より)


ブリツセル王立美術館展示の作品下向き矢印

ウェイデン
ROGIER VAN DER WEYDEN
Doornik 1399・1400-Brussel 1464

NOOD GODS

ウェイデン作の『ピエタ』であります。

制作年月日不詳。

ゴルゴダの丘で十字架から降ろされたイエス

中央でイエスを抱える聖母マリア『ピエタ』

イエスの死を知って聖母マリアは深く悲しみ

左は、イエスを腕で支える聖ヨハネ

聖母マリアの青い衣

聖ヨハネの赤い衣

青と赤の特徴的なコントラスが見事でありますグッド


・・・つづく・・・

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最終更新日  2019.05.29 00:10:08
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