|
カテゴリ:美術館・博物館
第4回『印象派展』は、エドガー・ドガが中心となり「サロン」に応募する者はグループ展に入れないとの宣言がされます
![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() Cladude Monet 1840年11月14日〜1926年12月5日(86歳没) ![]() 『ヴェトゥイユの雪の効果』1878年〜1879年 52.5cmx71.0cm 油彩・カンヴァス パリ『オルセー美術館』所蔵。 1878年9月、モネ一家は・・・ ![]() マネから引っ越し費用を借りて セーヌ川の50kmほど下流にある 小さな村「ヴェトゥイユ」に移った。 ちょうどこのころ、モネのパトロンであった エネスト・オシュデ は・・・ 破産して住むところを失っていた ![]() オシュデ は、妻「アリス・オシュデ 」と6人の子ども マルト、ブランシュ、シュザンヌの4姉妹 ジャック、ジャン=ピエールの兄弟とともに ヴェトゥイユの ![]() ヴァトゥイユ時代には・・・ 印象派の仲間たちとは疎遠になっていた。 グループ内では、特に印象派の売れ行きが思わしくない中 サロンに応募するか否か? という点では深刻な対立点となった ![]() ドガが・・・ ![]() 「サロン」に応募する者は、 グループ展に参加させない事を強く主張していたのに対し ![]() ルノワールは・・・ ![]() 1878年にサロンに応募し モネも・・・ ![]() グループ展が作品の販売を妨げていると考えるようになった。 1879年4月、第4回『印象派展』は、 ドガが中心となって開催し モネは、当初出品を断ったが ![]() ギュスターヴ・カイユボットが・・・ 所蔵者からモネの作品29点を借りて出品した。 モネは・・・ 第4回『印象派展』への出品に同意した理由について 「気は進まなかったが、裏切り者と思われなかったから」 と述べている。 第4回『印象派展』では、初めて利益が出て、 一人439フランスの配当金が与えられた ![]() 経済的には、依然として苦しく 妻:カミーユと子どもの病気が重なり ヴェトウィユの大家族は、 食糧も暖房もない生活を強いられた。 ![]() ![]() Claude Monet ![]() 『死の床のカミーユ』1879年 90.0cmx68.0cm 油彩・カンヴァス パリ『オルセー美術館』所蔵。 1879年9月5日、カミーユは32歳で亡くなった。 妻を失ったモネは、ピサロに 「君は、ほかの誰よりも 僕の悲しみを分かってくれるだろう。 徹底的に打ちのめされ、 再び生きる気力もなく 2人の子どもを連れて どのように暮らしていけばいいのか 皆目分からない」と書いている。 その後、エルネスト・オシュデ は・・・ パリに仕事に出ていったが、 妻:アリス・オシュデ は、ヴェトウィユに留まり モネの2人の子、ジャンとミシェルの面倒も見た。 モネとアリスとの関係は、深まっていった。 1879年〜1880年にかけての ![]() ![]() 異例の寒さとなり、 セーヌ川が完全に結氷し、 その後、激しい勢いで解氷した。 モネは、 この現象に強く興味を引かれ、 描く時間や角度の違いによる光の変化を 絵にすることに夢中になった。 ![]() クロード ・モネ『解氷』 (資料:ウィキペディアさまより) (写真撮影:ほしのきらり) モネに ![]() ![]() ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.09.12 00:10:08
コメント(0) | コメントを書く
[美術館・博物館] カテゴリの最新記事
|