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カテゴリ:美術館・博物館
ゴーギャン38歳頃、1886年7月から3度にわたってブルターニュ地方ポン=タヴェンへ赴き、印象派以後の「綜合主義」を確立します
ブルターニュ時代 Hoguera junto a una ria,1886 The Fire at the River Bank 【ブルターニュ第一次時代】 スペイン・マドリッド「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。 ポール・ゴーギャン(ゴーガン ) Paul Gauguin 1848年6月7日〜1903年5月8日(54歳没) 1886年(38歳)ゴーギャンは、 最後の印象派展となる第8回『印象派展』に出品する。 ここには、当時の主要なメンバーだった モネたちは参加ぜず、 ジョルジュ・スーラ (1859年12月2日〜1891年3月29日)らの 若い画家が初めて出品した『新印象主義』と名付けられる。 この展覧会は、印象派が絵画の変革を導いた時代が終わり、 それ以後の時代、つまり 「印象派以後(Post-Impressionists)」 (「後期印象派」は誤訳)の始まりを示すものとなった。 1886年7月 ゴーギャンは初めて、 ブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴く。 【第一次ブルターニュ時代】 ゴーギャン もまた「印象主義」の吸収を終え、 彼独自の絵画を作ろうと考え始めたのだった。 1887年6月(39歳) 西インド諸島のマルチニック島に滞在。 1888年2月(40歳)再び、ポン=タヴェンで製作する。 【第二次ブルターニュ時代】 彼は、この地の人々の信仰に根ざした営みに接するうちに、 眼に見える素朴さではなく、素朴な心の内をこそ 描かねばならないと考え始めた。この模索の末に 『説教のあとの幻影』が制作され ゴーギャン 独自の絵画「綜合主義」が確立される。 ゴーギャンは、ブルターニュについて・・・ 「私はここに野生と、プリミティヴ(原始的)なものを見出す」 と記している。 ゴーギャンの手紙 「君はパリ好きだが、 私は田舎がいい。 ブルターニュが好きだ。 私はここに野生と、 プリミティヴなものを見出す。 私の木靴が花崗岩の大地に 音を立てるとき、 絵画の中に探し求めている鈍い、 こもった、力強い響き聞く。」 (1888年2月 ポン=タヴェン シュフネッケル宛て) 彼が、この地で共鳴した「素朴」は・・・ 「野生」と「原始」の探求につながってゆく そして素朴な心の内、 すなわち眼に見えない内的な世界に向けられた眼差しは、 人間の根源を問うことへと展開する。 1888年10月から ゴーギャンは、 フィンセント・ファン・ゴッホ (1853年3月30日〜1890年7月29日)と 南仏:アルルで共同生活を送った。 12月 諍いのため、二ヶ月余りで破綻。 1889年(41歳)パリ「万国博覧会」に合わせて、 「印象派と綜合主義」の展覧会を開催。 6月【第三次ブルターニュ時代】 ポン=タヴェンから、同じブルターニュのル・プルデュに移る。 実に目まぐるしい歩みだが、この足跡に伴って、 「西洋」と「野生」の対立が次第に明確になる。 さらにこの時期には・・・ ゴーギャンにとって重要な自画像と自刻像が相次いで制作された。 人間の根源を問おうとすることは、 まず自分自身を探ることに他ならなかったのである。 ゴーギャンは、1886年の夏 初めてブルターニュ地方のポン=タヴェンに赴いた。 ブルターニュ地方は・・・ ケルトの伝統に由来する独特な文化を受け継いできた地で、 近代化の波もほとんど及んでいなかった。 特徴ある衣装や宗教儀礼。 十九世紀中頃にはまずロマン主義の文学者たちが このような風土に惹かれ、 さらに画家たちも制作に出かけるようになった。 ポン=タヴェンのグロアネックの宿屋には・・・ すでに多くの画家が集まっていた。 ゴーギャンは、彼らと交友し、 この地の風景とそこに生きる人々の素朴な生活を描いてゆく。 妻:メット宛ての手紙に 「私の体は鰊のように痩せているが、その分、若返った」 と語っており、制作に励む様子がうかがわれる。 ブルターニュが彼の絵画に啓示をもたらす予感が・・・ (参考資料:東京美術もっと知りたいゴーガン より) (写真撮影:ほしのきらり。) ゴーガンにぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021.03.06 00:10:12
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