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朝ドラ「らんまん」のモデルとなった牧野富太郎の現実はもっと厳しかったみたいですね
小石川植物園のチケット まきのとみたろう 牧野富太郎の生涯・・・その6 1867年5月22日〜1957年1月18日(94歳没) 1900年(明治33年)から、 未完に終わった『日本植物志図篇』の代わりに新しく 『大日本植物志』を刊行する。 今回は、 自費ではなく、帝大から費用が捻出され、 東京の大手書店・出版社であった 丸善から刊行された。 だが、これも松村の妨害により、 4巻で中断してしまった 1916年(大正5年)には個人で 『植物研究雑誌』を創刊(3号までは自己負担による発刊) 発刊間隔が空いたり、 池長孟からの援助が打ち切られたりするなど、 その刊行継続は必ずしも順調ではなかった 支援者であった中村春二の死去により、 再び行き詰まった後、 1926年(大正15年)に 津村重舎(のちには会社としての津村順天堂)の 財政的援助を得て復刊にこぎつけている。 1912年(明治45年)1月30日(牧野49歳)から 1939年(昭和14年)5月31日(77歳)まで、 東京帝国大学理科大学講師を勤める。 この間、 学歴を持たず、 権威を理解しない牧野に対し、 学内から何度も圧力があったが、 結局、 牧野は帝大に必要な人材とされ、 助手時代 1893年(明治26年)9月11日から 合計約46年間、 大学に留任している。 1927年(昭和2年)4月、 65歳で東京帝国大学から 理学博士を受ける。 論文の題は・・・ 「日本植物考察(英文)」。 同年に発見した新種の笹に、 翌年死去する妻の名をとって 「スエコザザ」 (学名:la ramosa var.suwekoana)と名付けた。 ・・・つづく・・・ 世界遺産にぽち お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.08.24 00:10:10
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