被害者や中の人のためだから…で済まされるか?
ブラック企業のケースで考えてみましょう。ブラック企業では、例えば残業代を出さない、労働時間が異常、暴力行為の常態化などと言うケースがあります。これらに対しては、刑事罰の対象とすることさえできます。ところが、ブラック企業は、多かれ少なかれ、「本来なら被害者であるはずの社員が(法的責任の有無は別として)加害者と化している」ケースが珍しくありません。 ブラック企業の感覚に慣れてしまうと、ブラックな状態こそ当然であって適法な状態に持ち込もうとする労働者が煙たい、会社を脅かす存在にしか見えない。むしろブラックな社長こそが恩人だ、救世主だ、ということになってしまうことがあります。 その結果、社員同士の軋轢が生まれ、労働者の正当な主張が他の労働者のブラックな感性に追いやられてしまい、それがブラック企業をブラックなままで支えている、ということもあります。 社長一人が、あるいは一部の中間管理職が加わったとしても、彼らが横暴だから、ではブラック企業は維持することができないものだと少なくとも私は思っています。社員たちが無意識的にせよブラック企業を受容、実行することでブラック企業がキープされ、大規模化するという笑えない事態を招くと私は考えています。さて、こんなブラック企業の勇気ある労働者が労基署に駆け込み、労基署が重い腰を上げ、ブラック企業を摘発(行政処分や刑事罰など)するとなったとしましょう。ところが、労基署に対して、前記のようにブラックな社長を信奉している労働者たちからは批判の声が集まる…ということがあります。「私たちはこの会社が潰れようものなら、たちまち路頭に迷ってしまう。社長は自分にブラックにせよ収入をくれる恩人である。だから、ブラックだから摘発なんてことをしないでほしい」さて、こういう声が集まった時に、労働基準監督署etcはそれなら仕方ないと言って諦めるべきなのでしょうか。 はっきり言ってしまうと、これはケースバイケースで大変悩ましい問題と言うしかありません。 今会社が潰れれば、他の社員たちはブラックなりに維持できていた生活の糧がなくなり、路頭に迷ってしまう。だから潰さないでおこうか…と言うのもれっきとした一つの考え方でしょう。 仮に私がここの社長の刑事弁護人になったのならば、ほぼ確実にそういう主張をします。 しかしながら。 こういった既成事実を受容してしまうと、個別的な権利を保護するための労働法が機能不全に陥る、と言うことになります。何より、法律の通りにしてくれというホワイト労働者の全うな要求は実質的に握りつぶされてしまうことになりかねません。 法律による救済を求めない人間に対してあえて救済しないとすることは仕方ないとしても、法律の通りにしてほしいという人間を助けない、既成事実に任せておくでは労働法は無に帰してしまいます。赤信号みんなで渡れば…にも限度があるのです。彼らに限らず、社会全体に労働法なんて無視してもいいものだ、と言う感性が蔓延してしまうということも避けなければいけません。 それに、中にはそういう雰囲気にのまれ、声を上げられないままの人たちがいるということだって考えざるを得ません。結局、心を鬼にして、それによって路頭に迷った社員には別途行政のケアを用意するなどした上で、会社を潰すも同然の摘発に入る…ということも、やはりケースによっては必要になるでしょう。 どっちをとるか、というのは明確なラインを引くことができないだけに、そのブラック企業の違法&損害の程度(違法性について故意か過失か、損害がどれくらいか、社会的影響は、自殺者が出ていないか、過去に指導されていないかetcetc)と、路頭に迷うであろう社員の人数や程度etcなどを総合勘案した上で、ケースバイケースで相当悩ましい価値判断を迫られることになるでしょう。同じ事件を同じ判断材料の下に判断しても、個々人の感性や、実情への理解度の相違なども大いに出てくることと思います。とはいえ、今の社員たちが維持してくれと泣き叫んでいるんだから勘弁してあげようよ、と言う考え方が常に使えるという訳ではないのです。ブラック企業に限らず、家庭内殺人で遺族が許してやってほしいと言っている場合の量刑判断とか、今話題の桜宮高校体罰事件とか、この辺の悩ましい緊張の問題なのだと考えます。