DNA鑑定がそんなにすごいか?
DNA鑑定。4兆7000億分の4兆6999億9999合致するDNAがあるんだから時効を伸ばしても大丈夫。DNAと言う証拠は過大評価され過ぎのように思えます。一例としてこちら。確かに、犯人を絞り込むに際して、DNA鑑定の働きは小さくありません。ここまでDNAの研究を発展させてきた研究者の皆さんには敬意を表します。しかし、DNA鑑定には大きく2つの陥穽があります。一つは、採取・保存過程でのヒューマンエラーです。せっかく採取・保存したにも拘らず、試料を取り違えてしまうことは起こります。何せ、試料はほんのわずかな血液だの皮膚だの細胞だの。取り違えをしても見ただけでわかる訳がありません。病院でさえ、顔が見えるはずの患者を取り違えて手術することが報道されるというのに、みても分からない領域では取り違えが発生しても全くおかしくないし、しかも取り違えても事後的に発覚することは極めて難しいと考える他ないのです。2010年には神奈川県警の科捜研で同様の事態が発生し、別人の男性に逮捕状が出されました。二つは、付着した経緯に対する検討です。忘れてはいけないのはDNA鑑定でわかるのは、「どこそこに彼の体の一部etcが残されていた」と言うことだけです。「どうしてそこに彼のDNAがあったか」と言う点について「ここにDNAを残しているのは犯人に間違いない」という推論が働かなければ何の意味もありません。そして、犯人に間違いないかどうかは、被疑者サイドの弁解や、付着しうる環境があったかどうかという視点と大きなかかわりを持ちます。例えば、女性が殺され、女性の手に髪の毛&毛根細胞がついていて、Aさんの髪の毛であることが分かった。Aさんは「必ず」有罪でしょうか?ここではい、と言う方の考え方はネット通販人気ランキング1位の激甘スイーツよりはるかに甘いと言わざるを得ません。もし仮に、そのAさんが被害女性と同居している夫だったらどうなるでしょうか。それなら、髪の毛は犯行の時ではなく、夫婦として生活していく過程でついたもの、と言う推論が成立してしまいます。結局DNA鑑定は役に立たないということになります。夫婦、とまでいかなくとも、例えば女性が理容師で何人もの人の髪の毛に日常的に触れる人物だったら?レジ打ち係とお客さんなどの何らかの形であっていたら?そこに「この人が犯人でなければDNAがつくことはあり得ない」という理屈が成立しない限り、DNAで個人が特定できても結局何の役にも立たないということになります。そこで教訓とすべき事件がドイツにあります。2009年に、ドイツでハイルブロンの怪人などと呼ばれる事件です。ドイツのハイルブロンで警官殺しをした犯人のDNAが重大犯罪で続けざまに検出され、すわ国際的連続重大犯罪、と思われたのですが、いくつかのつじつまの合わない事件が登場し、流石におかしいぞとなって改めて調べた結果わかったのはとんでもないことでした。DNAを採取する過程において使われた綿棒についていた、綿棒製造工場の女性のDNAが共通して付着、検出されていたのです。結局、捜査は軒並み振り出しに戻ってしまいました。更に日本でDNAではなく指紋で似たような事例があります。茨城県で、レジから金を抜き取った泥棒がいました。指紋を照会して被疑者を割り出したところ被疑者は否認。起訴される前に真犯人も登場し、冤罪事件であることが明らかになりました。何故こんな事態が発生したかと言えば、指紋自体は確かに被疑者のものでした。ところが、調べた結果この被疑者はレジ製造会社の勤務経験があり、このレジの製造に携わっていたために指紋がついていたのです。犯行時ではなく、製造時についた指紋だったという訳です。しかし、もしハイルブロンの怪人事件で、何らかの偶然でこの綿棒製造工場の女性に疑いがかかっていたら何が起こったでしょうか?ドイツには死刑制度や終身刑はありませんが、身の毛もよだつ想像です。茨城の事件でも、仮に犯行以外にも指紋が付着する状況があったのを見落とせば、この被疑者には有罪判決が下っていてもおかしくなかったでしょう。恐ろしいことです。また、茨城の事件では、被疑者の記憶がはっきり明瞭だったので、レジ会社に勤務していたからだ、と言うような弁解ができ、無事に疑いが晴れました。ところが、何年も経ってしまったら記憶はどんどん不明瞭なものになります。例えば、あなたが15年前に泊まった旅行先の旅館の名前は?そのときのおかみさんの顔は?なんて聞かれて、すらすら思い出せる人はそうはいないでしょう。私など1週間前ですら思い出せません。せっかく「DNAがついてしまう正当な(?)理由」があっても、被疑者に思い出せなければ弁解ができず、DNA鑑定からDNAを残した人間が犯人であるという推論を崩せなくなってしまうことになります。そういった危険をなくすためには、人間はそういうのを忘れるのであるから、個別具体的な反論が出てこなくてもDNAだけでは犯人だとは言えない、他の証拠と合わさらないと・・・というような程度の証拠、と評価するしかなくなってしまいます。そういう意味でも、長期間経過後の事件と言うのは極めて厄介ですし、ただDNAがあるという点に頼った立証は冤罪を引き起こすのです。ここにおいて、別人の一致する確率が4兆7000億人に一人だとか77兆人に一人だとか言う数値は、全く関係のないことなのです。確かに一致する確率が高いというのは問題外ですが、数値が高くなったとしても、事態は少しましになったという程度。どれだけ別人の一致する確率がゼロに近くなっても、極端な話本当にゼロになったとしても、本当に犯行時についたのかな?という点こそがDNA鑑定における極めて重要かつどれだけ技術が進歩しようとも付きまとう永遠の問題なのであって、この数値ばかりを強調する議論ははっきり言ってずれた認識であると言わざるを得ないのです。DNA鑑定に限らず、指紋等の鑑定でも、本当に問題なのは数値が正しいか、とか確率論的にどれくらい一致するかではなく、証拠を保存する際のヒューマンエラーや、そういった証拠が残された過程の検証である、ということを認識してほしいと思います。