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テーマ:憲法議論(165)
カテゴリ:憲法
《自衛と侵略の区別が難しく、それゆえ自衛を認めてしまうと侵略も許すことになるという平和主義者の理屈がある。もし本当にそうならば、平和主義者たちはなぜああも断定的に大東亜戦争は日本の侵略戦争であったと断罪できるのであろう。また、なぜこうも軽々しく、国連軍によるPKO(平和維持活動)に期待をかけるのであろう。国連にだけ、自衛と侵略を区別しうるノウハウが秘匿されているとでもいうのだろうか》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、pp. 142-143) 多くの場合、自衛と侵略を区別することが難しいのは確かであろう。が、平和主義者がおかしいのは、区別できないから一切の戦いを放棄しようと考えるところである。自衛と侵略が入り混じった「灰色」の状態であれば戦うしか選択の余地はない。侵略的側面があるからといって戦わなければ、「侵略」されてしまう。「侵略」され、第2次大戦前のアジアのように植民地化されても構わない、チベットやウイグルのように民族浄化されても構わないと考えるとすれば「異常」である。 《自衛と侵略の境界が不明瞭であることをいい立てて、自衛戦争をも放棄せよといい、その結果、「武力を手にするくらいなら自滅したほうがよい」と絶対平和主義者たちはいう》(同、p. 143) 「武力を手にするくらいなら自滅したほうがよい」などと言うのは個人的思想信条に属する話であって、これを日本国にまで拡大応用することなど出来ない相談である。自分が考え述べていることが絶対的に正しいと思うのは勝手であるが、これを他の人達にまで押し付けないで欲しい。「思想良心の自由」「言論の自由」は出来るだけ尊重したいので、自分に危害が加わらないのであれば、どうぞ御勝手に、ということである。 《その思想の論理を裏返せば、国内においても、正当防衛行動を排するのはもちろんのこととして、無警察の無秩序状態のほうがよいということになるはずだ。なぜなら警察は――裁判所も刑務所もそうであるが――ルール侵犯にたいするフォースつまり武力の必要という認識にもとづいて設立されているのだからである。いずれにせよ、「不正義の平和」に並んで「無秩序の平和」なるものを、それがどんなものであるかはもちろんわからないままに、夢想するのが日本の平和主義の到達点となっている》(同、pp. 143-144) 戦後日本が平和であったのは、主として日米安保によって米軍が睨みを利かせていたからに他ならない。決して憲法9条のお陰ではない。平和を維持するには努力が必要なのである。そのことが平和主義者には理解できない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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