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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2022.02.06
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テーマ:憲法改正(89)
カテゴリ:憲法

西部邁氏は、読売試案は「国民主権が強調されすぎている」と言う。

《読売の憲法改正試案――以下「試案」と記す――では、前文の冒頭で「日本国民は、日本国の主権者であり、国家の意思を最終的に決定する」と謳われ、さらに第1章は「国民主権」と題されて、その第1条にも「日本国の主権は、国民に存する」と宣せられている。読売新聞のがわも、この「試案」をPRするに際して、「はじめに“国民主権”がある」というふうに強調している。

 小生がこれを強調のしすぎと考えるのは、いうまでもないことだが、国民のほかに(たとえば天皇やアメリカ国家といったような)主権者がいるべきだと思うからではない。個人であれ集団であれ、何の制限も受けることのない主体が主権という凄い権力を掌中にすることを許すような憲法はあってはならぬ、とみなすのが小生の憲法観だからである。逆にいうと、何らかの制限を受ける主体が「無制限の、もしくは優越せる最高権力」としての主権を授かる場合には、実は、その主権は当の「制限条項」にたいして賦与(ふよ)されるにすぎないということだ》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、pp. 244-245

 「天皇主権」は許されないが、「国民主権」は許されるという考え方こそがそもそもの誤りなのである。絶対権力たる「主権」は、生者の誰にも与えてはならない。君主が主権を持てば「専制」を生み、国民が主権を持ち暴走すれば「革命」のような事態を生じかねないからである。

《たとえば、日本の国家の歴史のうちに秘められている伝統精神を担うものを「国民」とみなすという制限があるなら、国民主権という場合の主権は「日本の伝統精神」にたいして与えられるのであって、そうした精神を放擲(ほうてき)した(あるいは剥奪された)いわば裸の人間としての日本「人民」にたいしてではないのではないか。そう考えておくのではなければ、人民の欲望が、どんなものであれ、主権者の名において膨らまされるばかりとなる。様々な法律によって人民の欲望が制限されるといってみても、法律制定および法律解釈の主権が人民に与えられているのであってみれば、人民民主主義はほぼかならず欲望民主主義といった種類のものに堕落していく。そしてその欲望が虚無に沈んだり熱狂に舞ったりするとき、人民民主主義は、人民の自由をすら否定するという狂気じみた欲望にかられて、全体主義へと転化するのだ》(同、p. 245

 今を生きる国民が皆「聖人君子」だというのなら国民に「主権」を授けるということも有り得るだろう。が、そんなことは有り得ないのであるから、むしろ国民が暴走しないように縛りを掛けるのが本来である。それなのに、権力を笠に着、ともすれば自制心を失って暴走しかねない国民に絶対権力を与えることなど狂気の沙汰である。

《それほどに、国民と人民を概念的に区別しておくことが重要なのだ。少なくとも民主(つまり「民」衆の「主」権)を論じるときにはそうである。まして、日本国憲法によって仕切られてきた戦後という時代の最大の特徴は何かとなると、一言でいって、歴史否定であり歴史破壊である。歴史とのつながりをますます弱める傾向にあったという意味で、この半世紀は、ナショナル・ピープル(国民)を単なるピープル(人民)へ、またはノン・ナショナル・ピープル(非国民)へ、変質させる道程であったといってよい。

 このことについての配慮が「試案」にあってゆきとどいているとはとても思われない》(同、pp. 245-246






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Last updated  2022.02.06 21:25:41
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