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テーマ:憲法改正(89)
カテゴリ:憲法
西部邁氏は、 《日本国憲法のように「人権」とよぶにせよ試案のように「自由」とよぶにせよ、それらは価値にかかわる概念である。で、その価値の源泉がどこにあるのかということを規定する必要に迫られる》(西部邁『わが憲法改正案』(ビジネス社)、p. 164) として独特な試案を提示されている。 【西部邁試案】 第13条 すべての市民は法の下における自由を、自己においてのみならず他人についても、最大限に尊重しなければならない。 人身の安全を求める自由、居住・移転および職業を選択する自由、財産を私有する自由そして信教、言論、出版、結社、集会、学習および教育の表現活動にかかわる自由という4種の自由は、基本的自由として、すべての市民に保障される。 また、国防に参加する責任、税金を納める責任、子供に教育を受けさせる責任そして法の秩序に従う4種の責任は、基本的責任として、すべての市民に課される。 (同、pp. 229-230) 《「個人の尊重条項」をめぐって第1に論じられるべきは、「個人として尊重される」ということの意味についてである。個人とは、その英語であるインディヴィデュアルがよく表しているように、それ以上は「分割不能」な、あるまとまりをもった個体ということであり、人間にあってはそれに「人格」というものが伴う。いうまでもなく、個人の人格を尊重するという構えがなければ、諸個人のかかわる価値の優劣や認識の正誤や表現の美醜について論じることの意味すらなくなる。つまり、個人は尊重に値するべきものになるべきであり、そして個人にはそのようなものになろうとする意欲が多少ともある、という意味においてならば、「個人として尊重される」ことをもって国家の根本規範の原点とするのも領(うなず)けるところだ。 しかしそれはあくまで可能性としての人格についてであって、現実性としての人格は尊重されるべきものからは程遠い状態にあるというのが普通であろう。可能性としてのよき人格すらが軽蔑されるような抑圧状態を排せよといいたいのならば、人間の抑圧それ自体を正当とみなすような専制的ルールをつくってはならない、というふうに禁止形で規定すべきであろう。日本国憲法はルールというものの本質が「禁止の体系」という点にあることを忘れている。「個人として尊重される」というような肯定的な表現を安易に用いると、個人であること――つまり人間であること――がただちに称賛に値するのだ、といったようなつまらぬヒューマニズムに傾斜するのである》(同、p. 165) この<個人として尊重される>という文言が、戦後日本にあって「個」を甘やかす原因となってしまっている虞(おそれ)があるのもまた事実であろう。が、それはおそらくは誤った<個人主義>の理解によるものであって、<個人主義>を否定し、<個人主義>を「扇の要(かなめ)」とした憲法体系を崩壊させてしまうのは賢明なる選択だとは思われない。 であるなら、日本文化には無い<個人主義>とは如何なる概念であるのかをしっかり勉強した上で、この議論を再開すべきなのではないだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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