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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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平成ソクラテス

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2022.12.26
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カテゴリ:歴史

 《私》が1人の歴史家だとしよう。《私》は無限の事実の大海のなかから、さまざまの事実を拾いだしてくる。ロシア革命の歴史を執筆している《私》は、たとえば、戦争の重圧下におけるロシア経済の崩壊、ロシアの軍事的敗北、ポルシェヴィキの巧みな宣伝、農業問題におけるツァー政府の失敗、搾取された貧しいプロレタリアートたちのべトログラードの諸工場への集中、レーニンの卓抜なる指導、等々といったさまざまなる事実を取り上げる。

それでは、《私》はなぜこれらの事実を取り上げてきたのか。これらの事実に意味があると《私》が判断したからである。つまり、これらの歴史的諸事実の意味は《私》のほうからやってきたのである。事実は《私》がそれを事実として取り上げるのでなければ、何事も語らない。事実はそれ自らでは何事をも喋らぬ。《私》がそれに呼びかけたときにはじめて、歴史的事実は事実そのものに即して語りはじめる。

してみると、歴史家としての《私》の仕事は、たんに生のままの純粋な事実を正確に編纂して記録するということにつきるのではなく、主要なる仕事は事実を評価するということである。なぜなら、ある事実を歴史的事実として選びだし、記録するということは、その事実が他のものに比して記録さるべき意味と価値とがあると評価することにはかならないのだから。歴史的事実は《私》が評価してはじめて存在する。歴史は《私》の評価と無関係に存在するものではけっしてないのである。(『新・哲学入門』(講談社現代新書)第3部 行動について:第5章 歴史について:足立和浩、pp. 277f

 歴史家によって「過去の事実」が取捨選択された時点で、それはもはや客観性を失い、ある歴史観を纏った「歴史的事実」とならざるを得ない。「事実」は客観的なもので、誰の目にも同じなどとは言えなくなってしまうのである。

近代史家はこの必要な無智を自分で養わねばならず、自分自身の時代に近づくにしたがって、益々そうなるのです。つまり、彼には、少しの重要な事実を発見して、これを歴史上の事実たらしめると同時に、沢山の重要でない事実を非歴史的な事実として棄てるという二重の仕事があるのであります。しかし、これは、歴史とは議論の余地のない客観的事実を出来るだけ多く編纂することだ、と考える19世紀の異端説とは正反対のものであります。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、pp. 14f

 自分の歴史物語の流れに乗る事実は残し、乗らない事実は捨てる。この一連の作業にとても客観性があるとは思われない。






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Last updated  2022.12.26 21:00:08
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