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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2022.12.28
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カテゴリ:歴史

歴史の意味は言わずして明らかである、自明のことである、と信じていたからなのであります。19世紀のリベラルな歴史観と申しますものは、自由放任の経済学説という、これまた長閑(のどか)で自信に満ちた世界観の産物と深い関係がありました。誰でも自分の好きな仕事に精出すがよい。そうすれば、見えざる手が普遍的調和の心配をしてくれるだろう。歴史上の事実それ自身が、より高いものへ向う恵み深く且(か)つ明らかに限りのない進歩という至高の事実を立証するものと見られていたのです。罪のない時代でした。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 23)

 歴史家によって提出された、様々な「歴史的事実」が衝突する中で、「神の見えざる手」によって、均衡点としての「事実」が確定する、すべきだという1つの信仰である。が、自由放任とは自由主義における考え方であり、考え方が大きく異なる自由主義と社会主義が自由に競争しても均衡点が得られるはずがない。同様に、自由史観とマルクス史観が均衡するはずがないのである。

クローチェが1つの歴史哲学…を提議し始めました。すべての歴史は「現代史」である、とクローチェは宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値するのかを知り得るのか、というのです。(同、pp. 24f

歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の2つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」

しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。(同、p. 26

 これは、「事実の理論負荷性」を言い換えたものである。思想がなければ、「過去の事実」は単なるの事実に過ぎない。が、歴史家がある特定の思想の下、「過去の事実」を見ることによって、それは歴史的意味をもった事実に変容するということなのである。






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Last updated  2022.12.28 21:00:09
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