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テーマ:歴史とは何か(135)
カテゴリ:歴史
歴史上の事実は純粋な形式で存在するものでなく、また、存在し得ないものでありますから、決して「純粋」に私たちへ現われて来るものではないということ、つまり、いつも記録者の心を通して屈折して来るものだということです。したがって、私たちが歴史の書物を読みます場合、私たちの最初の関心事は、この書物が含んでいる事実ではなく、この書物を書いた歴史家であるべきであります。(E・H・カー『歴史とは何か』(岩波新書)清水幾太郎訳、p. 27) 言うまでもなく、歴史書にある「事実」とは、歴史家が「事実」と見做し、現在に「事実」として生き返らせたものであって、純然たる「過去の事実」ではない。だから、歴史書にある「事実」を追い掛けるだけでは、そこにある歴史は見えてこない。歴史家がその歴史書を著した思想背景を理解することが必要だということである。 歴史家は「その登場人物の心の中の動きを思想のうちに再現せねばならないといたしますと、読者は読者で歴史家の心の中の動きを再現せねばなりませんから。つまり、歴史家が扱っている事実の研究を始めるに先立って、その感史家を研究せねばならないのです。(同、p. 29) 歴史の書物を読む時は、歴史家の頭の中のざわめきに耳を傾けた方がよろしい。何も開き取れなかったら、あなたが聾(ろう)であるか、あなたの読んでいる歴史家が愚物(ぐぶつ)であるかなのです。実際、事実というのは決して魚屋の店先にある魚のようなものではありません。むしろ、事実は、広大な、時には近よることも出来ぬ海の中を泳ぎ廻っている魚のようなもので、歴史家が何を捕えるかは、偶然にもよりますけれども、多くは彼が海のどの辺で釣りをするか、どんな釣道具を使うか――もちろん、この2つの要素は彼が捕えようとする魚の種類によって決定されますが――によるのです。全体として、歴史家は自分の好む事実を手に入れようとするものです。歴史とは解釈のことです。(同) 《歴史は出来事の積み重ねだけからなっているわけではない。事実をどれだけ積み重ねても「歴史」にはならない。「歴史」とは解釈された出来事の配置なのであり、だから歴史を知るとは、この配置の解釈の体系を知るということなのである。むろん、この解釈の体系はなにも「歴史の法則」や「歴史の意志」である必要はない。むしろ、あらかじめどこかで作られた法則や意志をあてはめることは、妥当な解釈の道を閉ざすことになってしまうだろう。 にもかかわらずわれわれが歴史を解釈する権利をもつのは、まさに歴史自身が自己解釈をしているからである。歴史はそれ自身が自分を意味づけるために様々な観念を生み出しているのであり、歴史とは、こうした自己解釈の観念と不可分なのである》(佐伯啓思『アメリカニズムの終焉』(TBSブリタニカ)、pp. 50f)
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Last updated
2022.12.30 21:00:09
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