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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2023.12.21
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テーマ:大東亜戦争(216)
カテゴリ:歴史

《朝鮮との交涉は、對馬(つしま)の手を離れ、中央政府より直接に取扱ふこととなり、その爲めに先(ま)づ外務權大錄佐田白茅(さだ・はくぼう)、同小錄森山茂を派遣することとなり、更(さ)らに貿易通商の事に經驗ある外務權小錄齋藤榮を同行せしめ、彼等は明治2年米國汽船にて、橫濱(よこはま)より長崎に至り、長崎に於(おい)て佐田と同鄕の醫(い)廣津弘信の隨行を請ひしかば、之を伴ひ、明治年正月28日對州嚴原(いづはら)に著(つき)、2月9日和船虎屋丸に乘じて朝鮮に赴(おもむ)くこととなつた》(德富猪一郞『近世日本國民史 第86卷(征韓論前篇)』(近世日本國民史刊行會):国立国会図書館デジタルコレクション、p. 68

《佐田等は直ちに東莱(とうらい)府使等に會見し、談判したが、其の要領を得ず。仍(よ)りて佐田は副差使蓑田多記をして、彼我往復の書類を齎(もたら)し、征韓論の建議を政府に上(たてまつ)り、東京に歸(かえ)りて、廟堂(びょうどう)大官の閒に遊說する所あり、次で森山・齋藤も亦た歸鄕(ききょう)して、各々征韓論を上つた。明治初期の征韓論は、實に佐田・森山・齋藤等に負ふ所多く、特に佐田を以(もっ)て、其の最と爲す》(同、p. 69

 上書の中で、佐田は次のように書いた。

《全皇國一大城となさば、則(すなわ)ち蝦夷(えぞ)、呂宋(ルソン)、琉球、滿淸、朝鮮皆な皇國の藩屏(はんぺい)也。蝦夷すでに開拓を創(はじ)む。滿淸は交わる可し。朝鮮は伐(う)つ可し。呂宋、琉球は手に唾して取る可し矣。夫(そ)れ朝鮮の伐たざる可らざる所以(ゆえん)のもの、大(おおい)に之(こ)れ有り》(同、p. 73

 随分横柄な物言いに聞こえるかもしれないが、そういう時代だったのだ。当時、東アジアは欧米列強の陣取り合戦の様相を呈していた。その間隙(かんげき)を縫(ぬ)って、唯一日本が何とかして東アジアに独立圏を築かんと抗(あらが)っていたのだ。

《4年前、佛國(フランス)朝鮮を攻め敗屻(はいじん)を取る。懊恨(おうこん)限り無し。必らず挑戰をして長久(ちょうきゅう)ならしめず矣。又魯國(ロシア)竊(ひそか)に其の動靜を窺(うかが)ひ、墨國(米國)亦た攻伐の志有り。皆彼の金穀(きんこく)に垂涎(すいぜん)すと爾(し)か云ふ。皇國若(も)し斯(こ)の好機會を失うて、而(しか)して之を匪人(ひじん)に與(あた)ふ。則ち實に我唇を失うて、而して我齒必らず寒し。故に臣痛く皇國の爲めに、撻伐(たつばつ)を唱ふる也》(同)

※懊恨:悩み恨むこと。 長久:長く久しいこと。 金穀:金銭と穀物。 垂涎:ある物を手に入れたいと熱望すること。 爾か:そのように。 匪人:徒党を組んで略奪・暴行などをする悪者。この場合、欧米列強。 撻伐:伐つこと。

 愚図愚図(ぐずぐず)していては、欧米列強に取られてしまうと佐田は言うのだ。






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Last updated  2023.12.21 20:00:11
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