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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2023.12.27
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テーマ:大東亜戦争(216)
カテゴリ:歴史

With the suppression of the Corean Affair ceased all the aggressive measures of the government, and its whole policies since they have been directed toward what its supporters called “internal development.” And agreeably to the heart’s wish of Iwakura and his “peace-party,” the country has had much of what they called civilization. Yet withal also came, much efficiency, fear of decisive actions, love of peace at the cost of plain justice, and much else that the true samurai laments. “What is civilization but an effectual working of righteousness, and not magnificence of houses, beauty of dresses, and ornamentation of outward appearance.” This was Saigo’s definition of civilization, and we are afraid civilization, in his sense has not made much progress since his time. – Kanzo Uchimura, Representative men of Japan: Saigo Takamori. – A Founder of New Japan

(朝鮮問題(征韓論)が鎮圧され、すべての政府の好戦的政策は中止され、全政策は、支持者たちが「内部発展」と呼ぶものに向けられた。そして岩倉ら「内治派」の悲願どおり、国は文明と呼ばれるものをたくさん手に入れた。けれども、その一方で、多くの効率性、果断な行動への恐怖心、明らかな正義を犠牲にした平和愛など、真の侍であれば嘆き悲しむことが沢山もたらされた。『文明とは道の普(あまね)く行なわるゝを賛称せる言にして、官室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うに非ず』。これが西郷の文明の定義であり、残念ながら彼の意味における文明は、彼の時代からほとんど進歩していない)― 内村鑑三『代表的日本人』西郷隆盛―新日本の創始者

 外征派が鎮圧され内治派が実権を掌握してからというもの、「文明」はほとんどといって進歩していないと鑑三は嘆くのである。

《参議西郷隆盛は征韓の実行が対露戦争を誘発することを予想しつつ、しかも、そうなることはわが国として望ましいと考えた。彼は、ロシアはわが国侵略の意図を抱いており、そうであるとすれば、「只今(ただいま)北海道を保護し、夫(それ)にて露國に對峙(たいじ)可相成哉(あいなるべきや)。さすれば、彌(いよいよ)以て朝鮮の事御取り運びに相成り、ホッセット(Possit Bay)よりニコライ(Nikolaievsk)までも張り出し、此方より屹度(きっと)一步彼地に踏込んで此地を護衞」すべきであるとなしたのである。そして、のちに征韓反対派との論争に際しては、「方今(ほうこん)宇内(うだい)の形成に於て、皇威を海外に張り万国対峙を計る、須(すべか)らく速(すみや)かに海外搆兵(こうへい)の策を立て、先づ朝鮮、満洲地方を経略」すべきであると主張したのであった。

西郷の側近であった薩摩藩出身の軍人桐野利秋も同様の考えを抱いていた。参議江藤新平も亦(また)、ロシアとの戦争を予想しつつ征韓の断行を唱えたのであった。さらに外務卿副島種臣の場合には、その主張は当時の外務省顧問ル・ジャンドゥル(C. W. Le Gendre)の意見に負うところ大であったが、ル・ジャンドゥルは、日本としては朝鮮、台湾を併呑(へいどん)して強い発言権をもちうる地位に立ち、それによってロシアのアジア侵略を阻止すべきであるとなしたのであった。

以上によって明らかなように、征韓派は往々その大陸への膨張構想の一環として征韓を唱えたのであった》(岡義武『近代日本政治史』(創文社):国立国会図書館デジタルコレクション、p. 165

※宇内:世界 搆兵:戦いを起こす

 勿論、西郷は、朝鮮をただ侵略したいということではなかった。朝鮮を版図(はんと)とすることでロシアの南下を阻止しようと考えていたのだ。

 蘇峰は言う。

《「征韓論」の本質はここにあった。対内政策、対士族政策の面だけを強調しては、西郷死後1世紀の今日にいたるまで、事あるごとに「西郷精神」が復活して日本人を鼓舞した、その理由が理解できない》(林房雄『大東亜戦争肯定論』(番町書房)、p. 133






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Last updated  2023.12.27 20:00:11
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