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照千一隅(保守の精神)

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「照千一隅(しょうせんいちぐう)」(一隅を守り、千里を照らす)は伝教大師・最澄の言葉。本を読み、考えたことをこのブログに書いて参ります。ご意見、ご感想など御座いましたら是非お寄せください。

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2024.01.19
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テーマ:大東亜戦争(217)
カテゴリ:歴史

《近くは其実例を27、8年の日清戦争に於て見ることが出来る、2億の富と1万の生命を消費して日本国が此戦争より得しものは何である乎(か)、僅少(きんしょう)の名誉と伊藤博文伯(はく)が侯(こう)となりて彼の妻妾(さいしょう)の数を増したることの外に日本国は此戦争より何の利益を得たか》(「戦争廃止論」:『内村鑑三全集11』(岩波書店)、p. 296)

 日清戦争に勝利して日本が手に入れたものは何だったのか。勿論、何も手に入れなかったわけではない。賠償金をはじめ、幾ばくかの領土も手に入れた。が、それは本当に欲しかったものだったのか。否、わざわざ同胞の命を削ってまで手に入れなければならなかったものだったのか。

《日清戦争は朝鮮半島をめぐる戦いでした。朝鮮は日本にとって白村江の戦い以後、ずっと気になる存在でした。朝鮮との接触は断続的に続いていました。その朝鮮と日本との関係が日清戦争によってより明確化されることになりました。

 もともと朝鮮半島は中国によって支配される状態が続いていました。明治の初めに西郷隆盛が征韓論を説いていますが、その理由の1つには、中国の支配に対して朝鮮内部に生まれた抵抗・独立の動きを援助するということがありました。中国も朝鮮も江戸時代の日本と同様、鎖国を続ける意志をもっていました。中国はアヘン戦争によって開国せざるをえなくなりましたが、朝鮮はなおも鎖国を続ける意志が強かったのです。

 1866年にフランス極東艦隊が江華島に侵攻したときには反撃して撤退させていますし、アメリカ武装商船との間で事件が起きて5隻のアメリカ艦隊がやって来たときも激しく抵抗して撃退しています。このように朝鮮は開国を迫る外国に対して攘夷(じょうい)を続けていたのです。一方、従来の伝統を守って清には従属する形をとっていました。

 ところが、海外からの圧力を受けて清の国力が相対的に低下してくると独立の動きが生まれてきました。それは西郷隆盛が朝鮮に対する積極的な態度を表明した時期と重なり、独立を助けるための征韓論という議論がなされていったのです。

 ところが、朝鮮内部で氏族の反乱が起きて王朝が弱体化していました。そこに清が強く介入してきたのです。これは日本にとっても放っておける問題ではありませんでした。朝鮮問題は単に清との問題ではなく、ロシア問題でもあったからです。地政学的に見た朝鮮はロシアからの強い圧力に対する防波堤にもなっていたのです。もし朝鮮が崩壊することになれば、日本にとっては非常に危険な状態になります。日本が朝鮮に介入したのは、ある意味で必然だったのです》(田中英道『日本国史 下』(育鵬社)、pp. 162f

 が、日本が朝鮮に介入しても問題は解決しなかった。朝鮮に対する主導権を清から奪い取って、何が良かったのか。少なくとも結果として言えば、日本は朝鮮の文明開化に利用されただけだった。






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Last updated  2024.01.19 20:00:11
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