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2024.01.17
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テーマ:ニュース(99469)
カテゴリ:災害
阪神淡路大震災から29年 能登地震被災者に思い寄せ
6434人が亡くなり、3人が行方不明となった阪神淡路大震災から17日で29年です。今年は能登地震の被災者にも思いを寄せています。(以下略)
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29年というのは、特段の節目ではありませんが、今年は元旦にいきなり能登地震があったので、阪神淡路大震災を思い出してしまいました。
あのとき、東京の震度は1だったようですが、地震発生時間が5時46分ということで、私は寝ていたので揺れそのものは覚えていません。相棒は大阪在住だったので(まだ、結婚どころか知り合ってもいなかった頃ですが)相当の揺れに飛び起きたそうですが。

それ以前も、日本国内で大きな地震は度々起きてはいました。私の記憶にある限りでは、1964年新潟地震M7.5、1978年宮城県沖地震M7.4、1983年日本海中部地震M7.7、1993年北海道南西沖地震M7.8が、戦後阪神淡路までに起こっていた主要な大地震であったように思います。いずれも、地震の大きさは阪神淡路と同等かそれ以上の規模でしたが、主要な被災地が大都市ではなかったので、犠牲者数は新潟地震と宮城県沖地震で30名弱、日本海中部地震で約100名、北海道南西沖地震で約200人(今回の能登地震とかなり近い規模)でした。
阪神淡路大震災は、地震の規模そのものはそれまで数年か十数年おきに起こってきた巨大地震と大差はありませんでしたが、それが大都市の真下で起こったのは戦後初めてのことであり、犠牲者数も6000人以上と、東日本大震災以前の当時としては、戦後最悪、関東大震災以来の巨大災害となりました。

実は、この年の4月末、ゴールデンウィーク前半の連休に、関西に行ったことがあります。吹田の万博記念公園にある国立民族学博物館で、「ラテンアメリカの音楽と楽器展」という特別展が行われたのです。後から考えれば、この特別展はその後、東京でも渋谷の「たばこと塩の博物館」でもおこなわれたのですが(そちらも見に行きました)、そのときは大阪でしか行われないと思っていましたから。
ラテンアメリカの音楽と楽器展も素晴らしかったのですが、実は常設展がもっと感銘を受けまして、ほぼ半日ずっと博物館にいたような記憶があります。(展示も膨大な量でした)

で、翌日は京都に行ったのですが、その前に「大阪まで来たのだから神戸まで行ってみよう」と思ったのか、最初からその予定だったのかは記憶がないのですが、国立民族学博物館を出たあと、新快速に乗って神戸まで往復しました。

夕闇迫るぎりぎりの時間で、神戸に着いていったん駅をでたら、もう暗くなっていた記憶があります。しかし、その手前では、まだ日が残っていて、車窓が見えました。地震からもう3ヶ月以上経過し、万博記念公園や新大阪駅近辺は地震の痕跡など分かりませんでしたが、電車が淀川を渡った途端に、屋根にブルーシートを被せた民家(つまり瓦が落ちたということでしょう)が激増したことは覚えています。そして、途中駅の三ノ宮で、テレビや新聞の写真で何度も報じられていた、途中階が潰れたビルが、駅の目の前にまだ残っていたのは、今も鮮明に記憶しています。

正直なところ、阪神淡路大震災は世紀の大災害だったにも関わらず、この年は3月に地下鉄サリン事件、その直後のオウム真理教強制捜査と大事件が続き、被災地以外では多くの人の関心がそちらに向かっていたことは否めません。
地震からすでに3ヶ月以上経ち、新幹線や山陽本線もこのように復旧していた(山陽本線と東海道新幹線も地震で高架橋が落ちていました)ので、大きなビルがまだ損壊したままになっているとは知らなかったのです。
残念ながら、当時は写真は取り立てて趣味と言うほどではなく、このときカメラは持って行ったとは思うのですが、電車内からシャッターを切った記憶もないし、そもそもこのときの旅行全体の写真が、まったく残っていません。
神戸駅で一回下車して、駅前を一周歩いたときは前述のとおり日も暮れていました。風景は見えたのかもしれませんが、記憶にありません。ただ、駅前の地面が波打っていたことは覚えています。これは、311後は東京でもよく見られたことですが。
大阪への復路は、日もどっぷり暮れて、車窓の記憶はまったくありません。

そう言えば、このとき往復とも新幹線で行ったのですが、往路か復路かは記憶がありませんが、車内の電光掲示板ニュースで(まだインターネット時代ではなかった)近鉄を退団した野茂英雄がドジャースで初登板、5回無失点と表示されていたのを見た記憶があります。
そのときからもう29年です。時の流れとは恐ろしいもので、ついこの間と思っていた311からだって、もう13年です。

喉元過ぎれば暑さ忘るる
しかし、
災害は、忘れた頃にやってくる
人は、この二つの格言の間を行ったり来たりするものなのでしょう。

過去の発生頻度から考えると、これから10年後には、前回の昭和東南海地震(1944年)、昭和南海地震(1946年)から約90年になります。過去の東海・東南海・南海地震で最短の発生頻度は90年です(安政地震1854年から昭和南海・東南海地震まで)。もちろん、「最短で」約90年であって、必ず90年ではありませんが、基本的には、いつ南海・東南海地震が起こってもまったく不思議ではない時期にはいってくることは、頭の中に入れておいた方がいいかな、と思います。





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最終更新日  2024.01.17 19:00:09
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