|
カテゴリ:カテゴリ未分類
追記 相変わらずうちとシンクロ中の(でも絶対そうだと思ってました(笑))ばあチャルさんの日記にトラックバックさせて頂きました。あっちからこっちにくる割合の方が多いでしょうが、まだ未読の方は是非どうぞ。限りない愛惜の情が伝わってきます。 --------------- 今朝起きたら軽い頭痛がした。 昨日は仕事でドツボに嵌り終電すら逃して、途中からタクシーでご帰宅。家に着いたのは1時近かったので、疲労感が抜けない。 にもかかわらず、かねてから友人がずっと通っている美容室が非常にいいので是非紹介してあげるから一緒に行こう、といわれて、恵比寿くんだりまで一緒に行く約束をしていたのでのそのそと準備のために起き出す。 あれえ、待ち合わせ何処だっけか。そう思ってメールをチェックすべくPCを立ち上げるとヤフーニュースで フランソワーズサガン死亡の記事。 軽い驚きとぼんやりとした悲しみ、そして喪失感。 力が抜けた。 よく考えると、長年彼女の小説を愛読してるにもかかわらず、彼女が幾つなのかも最近病気がちであったことも知らなかったのだから、それほど彼女の生死を気にかけていたわけでもないのかもしれないが、それでも自分でも思いがけないほどに悲しいのは何故だろう。 これでもう彼女の新作小説を読む可能性は本格的にゼロになってしまったからだろうか。 今でも自分の一番お気に入りの本棚の一番目の棚(そこと二段目は特等席です)にその本を置いているくらい愛情を持っている本を書いた人が亡くなったことにより、何か大切なものを無くした気持ちに一瞬なった。 改めてサガンに想いを寄せる為に、道中で読む本としてサガンの作品を持って行く事にした。 さてどの本にしようかと本棚を覗き込む。 勿論彼女はその衝撃のデビュー作「悲しみよ、こんにちは」なくしては語れない人だし、もしくは最も完成度が高いのは私は「優しい関係」(もしくは「ブラームスはお好き」)だと思ってる。純粋に一番好きなのは何かと聞かれたら異色の「幸福を奇数に賭けて」(←この中の作品全部好き。「スウェーデンの城」もよし)だと答えるだろう。 しかし、悩んだ末に今日手に取ったのは何故か「一年ののち」だった。 ので、これについて書こうと思う。(ネタバレ)。 サガンのこの小説を評して訳者が、 この本を読む方はスリルとか小説的な筋の面白さを期待してはいけない。 これは私たちがただ一人で部屋にいるとき、何かしっとりしたものに触れたいときに読む本である。 といったが、全くその通りで。部屋ではなかったが恵比寿に着くまでの長い道のり電車の中で、私はまったりとした悲しみに包まれてサガンの世界に耽溺。 Anyway,「一年ののち」。 このタイトル(DANS UN MOIS, DANS UN AN)は、本書の頭で登場人物の一人、ベアトリスが口ずさむ 一月の後、一年の後、 われら如何に悩み苦しまん。 君よ、かの広き海、君とわれを分け隔てつつ ティトゥス、ベレニスと相会わずして 日々は明け、日々は暮れなん... というラシーヌの「ベレニス」からきている。 この物語はフランスのブルジョワジー階級に属する何人かの男女の一年の間の心の流れを書いた物語(というのに抵抗を覚えるほど話的には淡々と進む)である。 サガンの作品のどれもがそうであるように、作中の人物は作家、女優、田舎から出てきた若者、など、一見それぞれ類型化されたオーソドックスなキャラクターであるように見えるかもしれない。しかしサガンの極端に抑制された、それでいて精緻な筆によって書かれる(もしくは書かれない。サガンは文中に言葉にして書かずに、むしろ話の流れや主人公のある種のさりげないしぐさから、主人公の内面や過去について書かれていない多くの部分を読者に容易に類推させる天才である。)人物達は表面上の印象より遥かに多面的で繊細でまた複雑である。 主人公(であろう)ジョゼは、現在は海外に住む裕福な両親の送金で暮らしており、自由気ままな生活を送っているが人生に深い虚無感も抱いている。 (この辺わずか18歳にして成功と富を得たサガン自身の投影であろうか)。 本質的に繊細で思いやりのある親切な女であるが、同時に彼女は無関心という雰囲気を常に漂わせている。 そんな彼女はある日、とあるパーティで自分が普段付き合っている人々とは一風変わった医学生のジャックに出会い関係を持ち、一緒に暮らすようになる。 ジャックは「自分を恋しているのかもしれないが獣の悲しさでそれを言うことが出来ない熊」だとジョゼに愛情を持って喩えられる男であり、ファニーが言うところの「与太者」、ジョゼには「生命力」である。 しばしば粗野に見えるほど直接的で、ジョゼが普段付き合う文化的な人々マリグラス夫婦などとは異種の人物である。 しかしながら、ここでロレンスのコニーとメラーズのような関係を思い起こさないで欲しい。 こちらは、 「それは肉体的な問題ですらない」のであり、「私が惹きつけられているのは彼が自分に返す自分の彫像なのかそれとも彫像が存在しないということなのか」 とにかく彼は「存在している」のであり、それは象徴的だが、同時にジョゼは「象徴というものは、うまくことが進まない時に自分自身で作り出すものだ」ということを知っており、それを微笑みをもって受け入れるほどに複雑な存在である。 作家のベルナールは、ジョゼと双方共に認める「同じ種類の人間」でありジョゼに「近親姦的な恋」心を持っている。 彼のおとなしく臆病な妻の二コルは彼の為に生きている女であり、ひどく孤独だ。ベルナールは妻に好意を持っており、愛せないことに罪悪感をもってもいるが、ジョゼへの思いを断ち切ることが出来ない。 ジョゼはベルナールを愛していないが、二人の間には似たもの同士の深い共感と愛情、優しさが常に存在しており。 ベルナールがイタリアにいるときに、全く別の事情でジョゼが彼の逗留先を訪れたにも関わらず、ジョゼが自分に会いに来たとベルナールが誤解して幸福に浸っているのをガッカリさせるに忍びなく、自分にはジャックという恋人がいるにも拘らず、ベルナールに彼女の人生の二日間を、「幸福な2日間」、彼女にとっても不思議に非現実的で心地よい二日間を与える...。 一方、マリグラス夫妻の片割れ、アランは50代半ばにして突然、売れない女優ベアトリスへの長年の仄かな憧れが、激しい熱情に、むくわれない情熱に変化してしまったことに気がつき苦悩し、転落していく。理知的な妻ファニーもそれに気がついているが、どうにもならない。 ベアトリスは成功を夢見る野心的な新進女優であり、田舎から出てきたばかりのアランの従兄弟エドワールに盲目的な愛情を注がれている。 (ちなみにこの物語に出てくる人々にサガンは特別愛着を持っていたのだろうか。 後年ジョゼとベルナールは「すばらしい雲」に、ベアトリスとエドワールは「乱れたベッド」に、それぞれ再度登場している。) これらの人々の心情の流れ、心の移り変わりをしっとりと扱ったのが本書である。 サガンの作品の登場人物は皆優しい。 しかし優しさの中には弱さや孤独があり、また時にはその優しさが残酷さにもなりうる。 また、人は本質的に孤独であり、人々のコミュニケーションはしばしば一方的であり、多くは誤解に基づいている。 これらの、優しい人々の心に潜む弱さ、残酷さ、もしくは人生の不条理さに対する深い絶望感を鋭い筆をもって描き出すサガンの目もまた しかし限りなく優しい。 だからこそ読者は登場人物に対して深い共感を覚えずにはいられない。 野心家のベアトリスですら、利己的ではあるが本質的には善良な女、普通の女であり、充分感情移入可能なのだ。 そして彼女は舞台の上で漸く真に生きることを学び成功を収めるが、その成功ですら存在、人生という大きなものの中では小さなものに過ぎないと、興行主でありシニシストのジョリオの台詞は示している。 「ベアトリスが一生懸命になっているお芝居や、成功したいという小さな野心...彼女はなんて可憐だろう。この成功したいという望みは、存在という大きな世界においてなんとおかしなものだろう!」 この存在という大きな世界。 人々の出会いと別れ。 感情の移り変わり。 一年の間に、人々の心情や境遇は移り変わり、アランとファニーの取り返しのつかない溝や、ベアトリスとエドワールの破局、ベルナールとジョゼの別れ、ジョゼとジャックの再びの邂逅などを経て、 人々は冒頭と同じ場面マリグリス夫妻のパーティで再び顔を合わす。 彼女は客間にいるジャックを眺めていた。 ベルナールは彼女の視線を追った。 ”いつかあなたはあの男を愛さなくなるだろう”とベルナールは静かに言った、”そして、いつか僕もまたあなたを愛さなくなるだろう” われわれはまた孤独になる、それでも同じことなのだ。そこに流れ去った一年の月日があるだけなのだ。 ”ええ、わかってるわ”とジョゼが言った。 ”ジョゼ、それは不可能だ。われわれ皆何をしたって言うんだ?...何が起こったんだ?一体これはどういう意味なんだろう?" ”「そんな風に考え始めてはいけない」”彼女は優しく言った。”「そんなことをしたら気違いになってしまう...」" 時の流れは恩寵であると同時に、より多くの場合において残酷だ。 人は孤独だ。その深い虚無、静かなそして穏やかな絶望。 どの感情も永遠ではない。 サガンはそれら全てを 人々の自分の「根強い本能にかられて、永続性を、彼らの孤独の決定的な停止を信じようとする試み」の虚しさを暖かく、でも諦念と共に受け入れる。 そして 時は流れていく。 耐え難い。 しかしこの気持ちすら、いつか跡形もなく無くなっていくことをも知っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
|