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カテゴリ:孔子
『鶏を割(さ)くに焉(いずく)んぞ牛刀を用(もち)いん』 孔子
孔子の弟子の子遊(しゆう)=言偃(げんえん)が武城(山東省武城県)の長官に任命されて、この地を治めていました。 ある日、孔子が武城を訪れてみると、この街には琴や瑟(しつ・古代の弦楽器)の音が鳴り響いていて、その音色に合わせて詩書を歌っていた。 孔子は普段からその弟子たちに、国を治め民を安んずるには礼と楽の道をもってせよと教えていたので、子遊の治めているこの地に来てみると弦歌の声が満ちており、日頃の自分の教えをかたくなに守って行っている姿にいたく感動して言った。 「なるほど、よくやっておるわい」 孔子はとても嬉しかったので、丁重に歓待してくれている子遊に向かって、日ごろは口にしないことを冗談めいて話したのである。 「子遊よ、 武城のような小さな街を治めるのに、なにも大げさに弦歌まで教えなくてもいいのじゃないか? 鶏を調理するのにわざわざ、牛を調理する大きな刀を使わんでもいいのではないか? 『鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん』 子遊は、日頃から誠実で冗談のひとつも言わない自分の師匠がこんなことを言い出すとは思っておらず少々面食らってこう答えたという。 「私は、師匠から、教えて頂いたとおりに行っているだけですよ。 人の上に立って民を治める者は、礼楽の道を学ぶことによって民を愛するようになる。 また下々の民たちも礼楽の道を学ぶことによって温容になり、よく治まるようになる。 礼楽の道は、上にも下にも大切であって、これを学んではじめてよく治まる。 私はただこの教えを守っているにすぎないのです。」 孔子は、うれしさのあまり軽い冗談のつもりで言った言葉を子遊がくそ真面目に考えているので、少々気の毒になっていった。 「いや、いや、冗談でいっただけだよ 子遊の言った通りだ、じつに立派なものだ。」 このように自分のまわりにいる弟子たちをみまわしながら言ったという。 『論語・陽貨篇』 「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とは、 小さな事を処理するのに大器を用いることの意に使われる。 小事を処理するのに、大人物に頼んだり大げさな方法を用いる必要はないというたとえ。 また、孔子の言った意味を、「子遊のような大器を、武城というちいさな街で使う必要があろうか」という解釈もある。 子游(しゆう)= 言偃(げんえん)紀元前506-443年。 孔子の門人で孔門十哲(孔子の優秀な10人の弟子)の一人。 名は偃(えん)、字を子遊という。孔子門下の高弟のなかで、唯一長江の南の出身であることから、南方夫子(南の孔子)の尊称を持つ。 【今日のMOOSEの世迷いごと】 聖人である、孔子様が茶化したものいいをしてはいけません(笑い) 単に冗談を言っただけかもしれません。 【茶化す】 1 まじめな話を冗談めかしてしまう。茶にする。「―・さないでまじめに聞きなさい」 2 一杯くわせる。だます。マジメなことを冗談ぽくしたり、冗談にかこつけてごまかすことを「ちゃかす」という。漢字で「茶化す」と書くこともあるが、これは借字。他にも「ちゃ」のつく言葉には似たような意味があるが飲み物のお茶とは関係なく、芝居用語で笑わせる場面のこと「ちゃり場」から生まれたもの。 MOOSEも日ごろから茶化す傾向があります。 貧しい心がなせる業(わざ)といえるでしょう。豊かなこころがほし~い。 こころの奥底に物事を軽んじる考えがあるということか? MOOSEの最近の重要キーワードは『真摯さ』です。 まじめさ、熱心さということです。 物事、仕事でもなんでもいいんですけど、真摯さのない奴はすくいようがないですね。 こんな輩のなんて多いことか。 『真摯さ』って生まれ持った資質といえるでしょうか?。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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