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カテゴリ:富士見市の石仏
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3月から始まりました「富士見市の石仏」もいよいよ最終回です。個人の住宅内にある石仏など、何点かは取材できませんでしたが、また機会がありましたら取り上げたいと思います。 それでは富士見市北西部の路傍の石仏を見てみましょう。 しっけの坂上 路傍 富士見市渡戸2-9-5 ![]() ふじみ野のほうから「しっけの坂」を上ってきた先、変則的な四辻の交差点の角の住宅のブロック塀に庚申塔が祀られていた。写真の左の道も右の道も、次の角で交差する道は左は渡戸の観音堂へ、右は上沢交差点方面へ向かう道になる。 ![]() 庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。手足が細く長い。あるいは摩耗して細くなったのだろうか? ![]() 足の両脇に二鶏を線刻。足の下に屈服した邪鬼、邪鬼の下の三猿は遠目には同じように見えるが、近くから見ると左から言わ猿、見猿、聞か猿のようだ。 ![]() 塔の右側面 是ヨリ右 江戸道。左側面に入間郡鶴馬村願主渡戸中。脇に造立年月日が刻まれている。 渡戸どんぐり公園 富士見市渡戸3-7 ![]() 渡戸の観音堂から上沢に向かう道、しっけの坂の上を通り100mほど歩くと左手に渡戸どんぐり公園があった。植え込みの中に小堂があり薄暗い中に石塔が見える。 ![]() 庚申塔 享和元年(1801)正面中央「庚申塔」両脇に造立年月日。塔の左側面 鶴馬村 願主は個人名。 関口不動堂向かい藪の中 富士見市渡戸3-6 ![]() 渡戸観音堂と上沢薬師堂の中間付近、傾斜地に作られた市民緑地の南に昭和7年建立の関口不動堂がある。その道路を隔てた向かいの藪の中、天狗像やいくつかの祠、さらに右奥に舟形光背型の石仏が立っていた。深い藪の中は様子がわかりにくい。 ![]() 雨除けの下に天狗像。背には翼、右手に八手の葉のうちわを持つ。像は風化も見られず美しい状態を保っている。 ![]() 周りは草が生い茂り、近づいて確認はできないが、下の台の側面に「大願成就□講義 中嶋忠誠 敬白」だろうか?さらにその下の大きな台のほうの側面に寄付連名とあり、多くの人の名前が刻まれていた。台に立てかけられた「奉納額」には明治三十八年、東京四谷邑 南町などの文字が見える。 ![]() 右奥に阿弥陀如来立像 寛文9(1669)光背右に造立年月日。この銘が正しいとすると驚くほど古いものになる。光背左下に同行四十人?と刻まれていた。 上沢踏切西三叉路 富士見市上沢3-3 ![]() 県道266号線の上沢交差点から西に進み、東上線の踏切を越えてすぐ、右手の空き地の隅に庚申塔が立っていた。 ![]() 庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全面を白カビに覆われた中、白骨化したかのような青面金剛の顔は迫力がある。 ![]() 足の両脇に二鶏。足下の邪鬼は青面金剛に似て丸顔だが、こちらはとぼけた愛嬌のある表情。その下には三猿が彫られていた。 ![]() 塔の右側面に造立年月日。左側面には入間郡鶴馬村上澤中と刻まれている。 護国寺北向かい住宅 富士見市勝瀬943 ![]() 勝瀬の護国寺の北の住宅の庭に小堂が立っていた。中に二基の石塔が見える。 ![]() 右 馬頭観音立像 享保8(1723)三面三眼忿怒相六臂。頭上にくっきりと馬頭。馬口印を結び、剣、法輪、弓矢を持つ。光背の左下に造立年月日。右下に山田之庄三芳之里下仙波。その脇に施主勝瀬村中と刻まれていた。 ![]() 左 馬頭観音立像 享保8(1723)三面忿怒相六臂。同年の作品だが、較べてみるとこちらのほうが全体に丸みがあって柔らかい印象を受ける。光背上に梵字「カン」頭上に大きな馬頭。やはり馬口印を結び、錫杖、法輪、弓矢を持つ。光背右脇に造立年月日。左脇に施主勝瀬村 鈴木吉衛門と刻まれていた。 さて、次回はいよいよ「岩槻区の石仏シリーズ」に入ります。ちょっとだけお休みをいただいて日曜日スタートの予定です。岩槻区抜きでは「さいたまの石仏」も画竜点睛を欠くということで気にはなっていたのですが、これでやっとコンプリートとなりそうです。 今年の1月から取材を始めて5月いっぱいまで、なんとかひととおりまわることができました。西浦和からは遠い地域であり、北の鹿室から南の釣上新田まで、板橋区に匹敵するほどの広さで、十分に取材できたとまでは言えないのですが、現時点でできる範囲で紹介してゆきたいと思います。全部で100回近くなるでしょうか。年内いっぱいかかりそうです。長くなると思いますがしばらくお付き合いください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.06.16 20:28:44
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