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カテゴリ:越谷市の石仏
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今日は大成町の最終回です。大成橋南から東の地域は以前は飯島村と言われたところで、今は大成町でいっしょになっていますが、旧西方村、東方村、見田方村の大相模郷とはまた離れた地域だったようです。 飯島自治会館前墓地 越谷市大成町7-179西 旧吉川県道を東に向かい、大成橋南交差点を過ぎて300mほど行くと大成町交差点のT字路に出る。交差点の東南の角地に飯島自治会館があり、その前に東福寺霊園の入り口があった。入口左側に庚申塔が立っている。 庚申塔 享保15(1730)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 転々と白カビがこびりつく。頭に蛇が巻き付き、つり目の青面金剛の立ち姿は力強い。上部両脇に造立年月日。右下に飯嶋村、左下には講中廿三人と刻まれていた。 邪鬼は両手をグーにして踏ん張って青面金剛の重さに耐えている。正面向きの三猿、両脇の猿はちょっと内向きの体育座り、これもあまり見ない形だ。 墓地に入って右手、旧県道側の塀の前に三つのブロックに分かれてたくさんの石塔が並んでいた。 中央のブロック最後列に阿弥陀如来立像 寛文10(1670)美しい形の大きな舟形光背に気品にあふれる阿弥陀如来立像を浮き彫り。個人の墓石だがあまりにきれいなので撮らせていただいた。 左奥のブロックの左端、後ろの二基の石塔が資料で取り上げられている。 最後列に巡礼供養塔 文政元年(1818)この二基は前の石塔のために塔全体を見ることができない。阿弥陀三尊種子の下「奉巡拝諸國霊場供養塔」両脇に造立年月日。 その前、普門品供養塔 文化3(1806)角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下「普門品供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面は全く見えないが、資料によると「觀音講中」と刻まれているという。 大六天堂 越谷市大成町7-177南 東福寺霊園から東へ50mほど、南に向かう田んぼのあぜ道のような道を進むと右手に鳥居が見えてくる。鳥居の正面に宝篋印塔。その左は大六天堂らしい。 宝篋印塔 寛永21(1644)江戸時代初期の外反する隅飾を持つ宝篋印塔。笠の上の相輪部が著しく発達していて、資料ではこの相輪、頂上の宝珠が江戸時代後期の形式であり後から補修されたものとしているが、今まで見た中ではこの立派な相輪部はむしろ江戸時代初期の宝篋印塔の特徴だと思われる。 当ブログ2014.04.30の記事、さいたま市緑区東浦和の大北釈迦堂で見た慶安2年の(1649)宝篋印塔の写真を参照していただきたい。豪華な相輪、相輪下部の蓮台、外反する隅飾、塔身部、基礎の形状など、非常によく似ている。 基礎正面 中央に「造立日待講二世安樂處」両脇に造立年月日、下部に敬白。基礎両側面に合わせて9名の名前が刻まれていた。 鳥居の右側に二基の石塔が並んでいる。奥の角柱型の石塔は正面に「奉納日支事変従軍記念碑」昭和15年造立。 手前 塞神塔 天明2(1782)駒型の石塔の正面 日月雲の下を四角く彫りくぼめた中に「塞神」両脇に造立年月日だが、たぶん「庚申」を無理に削り取ったためだろう、左右の紀年銘も半分しか残っていない。 塔の左側面に 右 こしがや道。右側面には左 のら道と刻まれているが「のら」は野良?それとも地名だろうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.05.11 20:32:30
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