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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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今日は島根の曹洞宗寺院 東光院の石仏を見てみましょう。 東光院 西区島根690[地図] 県道57号線、島根交差点から治水橋方面に進んで二つ目の信号交差点を左折したあたりに東光院がある。入口はお寺の南にあるが、道が狭く私道が入り組んでいてわかりにくい。入口から山門付近は最近整備されたものらしく、大きな寺標、石灯籠が並んでいた。 参道の右側、寺標のすぐ後ろに大きな馬頭観音塔 文政12(1829)が立っている。 四角い台の上、角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」右脇に天下泰平、左脇に國土安全。 塔の右側面 西 川ごへ 二リ半。北 あきはへ 一リ半。 左側面 東 よのへ 一リ。南 はやぜへ 三リ。四方向四地名の道標になっていた。 塔の裏面には大きく造立年月日が刻まれている。 下の大きな四角い台の正面 中央に村々助力とあり、まわりに塚本村、二ッ宮村など近隣の村から多くの人たちの名前が上下二段に刻まれていた。 こちら台の右側面 右から本村 林光寺から始まって上下三段に渡り中ノ林村、飯田村などからやはり多くの名前が見える。 左側面にも八王寺村、嶌根村、在家村宿村などやはり上下三段に多くの名前が刻まれていた。三面合わせると30以上の村から180人余りの人たちの助力があったようだ。 裏面には右から武州足立郡 植田谷領 嶋根村とあり、世話人十二名の名前。さらに願主 馬喰 星野 藤助。左端に与野町の石工の名前が刻まれていた。この大馬頭観音塔は荒川の堤の上、旧川越街道沿いに祀られていたもので、荒川左岸一帯の整備工事に伴ってこちらに移動されてきたものらしい。 山門の手前、参道左脇にたくさんの石塔が並んでいる。その多くは馬頭観音の文字塔で、前列に文化6(1809)文政10(1827)文久2(1862)江戸時代造立のものが三基、残りの六基は明治時代のもの、また後ろの列はいずれも明治から昭和にかけて造立されたものだった。村の辻々にあった馬頭観音塔が土地の整理などに伴い、管理のためにこちらに集められたものだという。 後列左から二基目 牛頭観音 馬頭観音塔 昭和23(1948)右には地先祖馬頭觀世音、左に牛頭觀世音と刻まれている。「牛頭觀世音」は稀に見かけるが馬頭觀世音と併記されたものは初めて見た。 後列右端 観音菩薩塔 延享3(1746)角柱型の石塔の正面中央に「南無觀世音菩薩」塔の右側面に「奉讀誦普門品三万七千巻爲二世安樂」左側面に造立年月日が刻まれている。 18基の文字塔の奥 観音菩薩塔 安永4(1775)角柱型の石塔の上に蓮台、その上に観音菩薩像だが、坐像ではなく立像がももから下が欠けたまま乗っているように思われる。観音様は左手に未敷蓮華を持ち、左手をそのつぼみに寄せていた。 角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「遍山顧心庵主」尼僧の墓石らしい。右側面に命日、左側面に偈文が刻まれていた。 右端 山門近くに馬頭観音塔 昭和29(1954)右に新秩父二十六番札所とあり、こちらはもともと東光院のために造立された石塔であろう。 参道の右脇には六地蔵の小堂があり、その脇に宝篋印塔が立っていた。 宝篋印塔 明和2(1765)屋根型の笠を持つ江戸時代中期以降の宝篋印塔。 基礎の正面中央に「奉納大乗妙典六十六部 日本廻國供養塔」両脇に造立年月日。左側面に武州足立郡植田谷領嶋根村願主 湯沢藤七と刻まれている。 左側面には湯嶋天神前、春木町、目黒など江戸の町の商人たちの名前が並んでいた。島根村と江戸の商人、どんな関係があるのだろう? 裏面には近隣の村の名前がいくつか見られる。中央には當村とあり、11名の名前が刻まれていた。 小堂の中 丸彫りの六地蔵塔 文化6(1809)左端の石塔の正面に造立年月日。 右端の石塔の正面中央に願主當村。両脇に施主十方 善男女と刻まれている。 山門を入ってすぐ左に立派なお堂が立っている。 中には二基の五輪塔が並んでいる。扉は閉まっていて近づいて拝見することはできなかった。近くに立てられた解説板によると、この二基の五輪塔は同一形状で、戦国時代の永禄13(1570)に造立されたものだという。東光院には他にも正平7(1352)の板碑が残されており、創建年は不詳ではあるが古くから地域の信仰を集めてきたものと考えられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.10.30 20:16:48
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