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私家版 さいたまの石仏

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☆いたやま☆

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自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

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2023.11.03
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島根の北は植田谷本になります。今日は藤橋の六部堂の石仏を見てみましょう。

藤橋の六部堂 西区植田谷本66​[地図]


鴨川に架かる藤橋の西詰め近くにある「藤橋の六部堂」敷地内に立つ解説板によると、昔、この付近には鴨川にかかる橋が無く、人々は川の両岸に生える藤蔓で編んだつり橋を使っていたが、事故も多く難儀していた。京都生まれの小平次という廻国行者(六部さん)がこの地を訪れたとき、丈夫な橋を造って人々を救いたいと、周辺の九十ヶ村をまわって寄付をつのり、村人たちの協力のもと立派な石橋を完成させたという。小平次の没後、村人たちはその徳を慕ってお堂を建ててこの廻国行者の像を祀ったものらしい。お堂の右のほうに石塔が立っていた。


石橋供養塔 寛政8(1796)四角い台の上に背の高い角柱型の石塔。その正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典石橋供養塔」両脇に天下和順・日月清明。右下に願主 丹後國宮津下岩龍組。左下に上沼邑行者小平次と刻まれていた。「奉納大乗妙典」が付くのは廻国行者が六十六ヶ所の霊場をめぐって大乗妙典=法華経を奉納して回ったためだろう。


塔の左側面 江戸、大宮、与野などとあり、人名や寺名が刻まれ、その下に三条町から十名の名前、さらに嶋根村から八名の名前が刻まれている。


続いて与野町から四名、その隣には与野上町講中。その下に側海斗村、本村から合わせて十五人の名前が刻まれていた。


左側面にはたくさんの戒名が刻まれている。中に二つ沙弥の名前も見える。


下部には江戸神田筋違御門外 石工の名前。その横に奈良瀬戸とあり、大工の名前が刻まれている。


塔の裏面に造立年月日。その下に供養導師として・・・


植田谷本の真言宗寺院林光寺と三橋の天台宗寺院慈宝院、二人の法印の名前が刻まれていた。左右両脇に測海斗邑、植田谷本邑。最下部に世話人六名の名前が刻まれている。


下の四角い台の正面中央に助力村々とあり、その両脇に二十八の村の名前。台の左側面には戸田、美女木など、比較的遠い二十五の村の名前。さらに右側面に二十八の村の名前。台の三面合わせただけでも八十一ヶ村、塔のほうも入れると百近いだろうか。


石橋供養塔の裏に三基の石塔が並んでいた。左 念仏供養塔 寛政8(1796)石橋供養塔と同年同月の造立のようだ。大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「念佛供養塔」右下に願主一名の名前。左下に善男女中。下部に蓮華が彫られている。


塔の右側面中央 、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品供養塔」右下に側海斗邑、左下に植田谷本村とあり、その下に三名の名前。


左側面には圓阿弥村、嶋根村とあり、その下に四名の名前が刻まれていた。



裏面中央に造立年月日。右下に下新田、三条町と見えるがその下は剥落があり人名は読み取れない。左側にも「上  」とあり、地名かもしれない。


その右に二基の石塔が同じ台の上に乗っていた。


左 六部堂再建立塔 享和元年(1801)箱型の塔の正面 中央に「六部堂再建立」導師 林光寺□主□助」塔の右上に念佛講村中。左上に造立年月日。下部に数人の名前が刻まれている。


右 不明塔。風化が著しく進み顔の付近が一部剥落、銘も見当たらなかった。腹前に両手で宝珠のようなものを持っているが、これが薬壺なら薬師如来坐像ということになるだろう。





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Last updated  2023.11.03 17:42:43
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