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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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今日も佐知川から二カ所の石仏、いずれも庚申塔です。 旧覚音院墓地 西区佐知川1149隣[地図] 県道57号線水判土交差点から900mほど西、道路右側の住宅街の中に市営植水住宅がある。その3号棟の南に小さな墓地があった。入口左脇に「覺音院之碑」が立っている。 墓地の北側にタイプの異なる三基の庚申塔が一列に並んでいた。 左 庚申塔 延宝4(1676)江戸時代初期らしい板碑型三猿庚申塔。石質は硬く銘は比較的きれいに残っている。 梵字「ウーン」の下「奉造立庚申供養二世安樂所」右脇に武州足立郡佐知川村、左脇に造立年月日。余談だが「ところ」として使われるのは「所」「処」「處」「攸(ユウ)」など。意外と多いのが「攸」で、草加市の石仏ではこれが一番多かったような気がする。 下部に正面向きの三猿。庚申塔の主尊らしく存在感がある。両脇に施主 敬白。その下に十数名の名前、最後は いしや太兵衛と刻まれていた。 中央 庚申塔 元禄8(1695)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 頭上に梵字「ウーン」。右脇に「奉造立庚申供養二世祈所」左脇に造立年月日。さすがに元禄期の庚申塔、まったく定型ということはなく、上の手の持物が左右逆で、右手に法輪、左手に矛をもつ。これはなかなかお目にかかれない。 足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は全身型で頭は右、全身型の邪鬼の場合、なぜかわからないが頭が左の場合が圧倒的に多く、この頭が右の邪鬼もかなりな少数派と言えよう。邪鬼の下の正面向きの三猿。その右脇に武刕足立郡植田谷領佐知川村。三猿の下の部分に願主十数人に名前が刻まれていた。 右 庚申塔 元文5(1740)江戸時代中期だが、江戸時代初期を思わせる古風な三猿庚申塔。上部を円くした板碑型の珍しい石塔である。 塔の正面を彫りくぼめて、外に日月。中は梵字「ウーン」の下に「奉造立庚申供養」上部両脇に造立年月日。右下に佐知川村 覺音院 覺傳代。その下に六名の名前が刻まれていた。 下部に可愛らしい正面向きの三猿。普通三猿は足を開いて座る形が多いが、ここでは足をそろえて中腰のまま椅子に腰掛けるような姿勢で並んでいる。この形は見たことがない。ユニークな庚申塔だと思う。 金山堂 西区佐知川1304[地図] 国道57号線を指扇方面に向けて進むと道路右側に金山神社があった。同じ敷地内、県道近くに立つ金山堂の前、緑色のフェンスの向こうに二基の石塔が並んでいた。 右 庚申塔 元禄7(1694)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。一部を除いて塔全体に白カビが厚くこびりついている。 近づいてもなかなか銘が見えてこない。光背右脇、左手の法輪の上下に「元禄」その下に「七」、矛を握った右手の先に「十一月」その下に「吉日」とやっと確認できた。持物は矛・法輪・弓・矢。 このあたりは銘が見当たらない。足の両脇に二鶏。邪鬼は不在で、足元には三猿が肩を寄せ合うように座る。三猿の下の部分に17名の名前が刻まれていた。 左 庚申塔 元禄7(1694)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。笠付きのためかこちらは白カビが少ない。 日月雲は線刻。像の両脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏。右の雄鶏の脇に上佐知川村。 足元に邪鬼の姿はなく、三猿が肩を寄せ合って座りその下の部分に6名の名前。・・とここまで書いてきてやっと気が付いたのだが、この二基の庚申塔はその形状は異なるが内容はよく似ている。というよりも全く同じなのではないか?造立年月日も同じで像の内容も同じ。おそらく同じ石工さんの仕事だろう。右の庚申塔の右下の銘をよく見ると・・・川村のように見える。違うのは施主名だけ? こちらの庚申塔の両側面には大きな蓮華が浮き彫りされているが、これだけの余白があるのに銘は見当たらなかった。「奉供養庚申・・」とか「奉造立庚申供養・・」とかありそうなもの、二つの庚申塔はまったく同じ内容でそろえられている。二基を同時に造立して、その施主を6名と17名にわける必要はないははずだ。あれこれ考えてみたのだが、はじめ見落としていた右塔の光背右下の銘は下佐知川村だったのではないか?佐知川の上村、下村で協力してそれぞれの村境に「塞神」としてこの二基の庚申塔を建てたのではないだろうか?全くのあてずっぽうだが、そんな気がする。 金山堂の前にも石塔が立っていた。角柱型の石塔の正面 梵字「ウーン」の下「奉供養青面金剛二世悉地圓満攸」両脇に天下泰平 日月清明。 塔の左側面「石橋二ヶ處成就所」(所の異体字)右脇に武州足立郡、左脇に植田谷領佐知川村。庚申塔であり石橋供養塔でもある。 塔の右側面 梵字「キリーク」の下「南無阿弥陀佛」その下に村中女中。左脇に念佛講施主。続いて願主 一名の名前。右脇最下部にも・・・衛門と人の名前が見えるが、世話人か?右脇は途中がかなり大きく削れているようだ。中ほどに「卯」と一文字だけが残っていて、もしかしたらこのあたりに紀年銘が刻まれていたのかもしれない。裏面は全くの無銘で残念ながら造立年月日はわからない。いずれにしても、こちらの石塔は念仏講が中心となって、村の人々、女性たちも協力して造立した「名号塔」であり、「石橋供養塔」であり、「庚申塔」ということになる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.11.29 19:40:26
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