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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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県道57号線に沿って水判土、佐知川、土屋と見てきましたが、今度はその西の地域、西遊馬を見てゆきたいと思います。今日は曹洞宗寺院、高城寺の石仏です。 高城寺 西区西遊馬229[地図] 県道57号線の馬宮コミュニティセンターのある交差点を左折した先に高城寺がある。JAの脇の道から北へ入ると、寺標の立つ高城寺の山門前に出る。山門の向こうに鐘楼門、その奥に本堂が立っていた。 山門右側は駐車スペースになっていて、その北側の隅に小堂が立っている。手前に設置された解説板によると、荒川土手にあった庚申塔が堤防拡張工事のために移転、ここ高城寺の敷地内に安置することになったということだ。 庚申塔 延宝4(1676)駒型の石塔の正面に六臂の青面金剛立像を浮き彫り。上部に日月雲をもたないのは珍しいが、江戸時代初期らしくもある。 風化のために銘は薄く、像も摩耗が見られ、顔の様子などははっきりしない。右上手に矛、左上手も法輪ではなく矛のような武器を持っている。下の手は両手に弓と矢。像の右脇に造立年月日。左脇に武州足立之郡遊馬村。青面金剛は磐座に立ち、邪鬼はいなかった。 下部には二匹の猿が向き合って座り合掌している。これも珍しい構図だ。二猿の脇に施主 敬白。その下の部分に上下二段にたくさんの名前が刻まれている。近づいて見ると下の段の名前は御秀、御作、御勝、御虎など、ひらがなではないが女性の名前らしい。上の段は男性で、施主は合わせて二十数名になる。 山門と鐘楼門の間、参道右脇に石塔が並んでいた。右端の板碑は元徳年間の紀年銘があり1330年ころのもの。左端は昭和40年造立「入山門参道舗装供養塔」地元の篤志家三名の名前が刻まれている。間の三基が江戸時代の石仏。 庚申塔 宝暦7(1757)四角い台の上 唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。 蛇冠、三眼、目を吊り上げた青面金剛。上左手でショケラの髪をつかみ吊るしている。「岩槻型」庚申塔のようだが、岩槻区における造立が1688~1728年なので、30年ほど遅れる。 足元の邪鬼は全身型、頭を左、口をへの字にして強情そうな顔。「岩槻型」のショケラは正面向き上半身型がスタンダードだった。邪鬼の両脇に二鶏。その下に両脇が内を向く三猿。台の正面右端には遊馬村とあり、続いて多くの名前が刻まれていた。 塔の右側面に天下泰平國土安全。左側面に造立年月日。下部両脇に講中 三拾一人と刻まれていた。 その隣 納経回国供養塔 宝永8(1711)四角い台に蓮台を乗せて、その上に大きな角柱型の石塔。正面上部両脇に日月雲を線刻。中央に「奉納大乗妙典六十六部日本廻国供養塔」両脇に天下泰平 國土安穏。右下に造立年月日。左下に願主 圓嶽自林居士。台の正面にも銘がありそうだが、薄くなっていてうまく読み取れまかった。 塔の右側面に縦に二行「三界萬霊六親眷属 父母自他平等即身成佛」その下におくま、おかね、などひらがなで多くの名前が刻まれている。 左側面はカビが多く難読。こちらも縦に二行「秩父 坂東 西國 四国 諸國報謝宿衆中二世安樂所」下部にはやはり多くの名前が刻まれていた。 裏面、右から導師とあり、中央に武刕足立郡植田谷領遊馬村。左に遊馬山高城禅寺四世鳳山凰叟と刻まれている。 続いて 舗石供養塔 享和2(1802)四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「舗石供養塔」舗石=敷石と思われるがあまり見かけない。台の正面に三名の名前。 塔の右側面に造立年月日。左側面に遊馬山高城禅寺十世泰範代と刻まれていた。 参道左脇には二基の石塔が立っていた。 左 宝篋印塔 明和6(1769)江戸時代中期以降に多い屋根型笠付きで、三段の台の上に反花付き台、敷茄子、蓮台と重ね、基礎と四面に「佛」「法」「寶」「僧」と刻まれた塔身。頂上に宝珠を乗せた相輪を持ち、総高3mを超す大型の宝篋印塔。 基礎の正面中央に「奉納大乗妙典六十六部」下部両脇に願主 得順。左側面に造立年月日。その奥に遊馬山高城禅寺洲□天大。続いて四つの戒名。 左側面に「銘曰・・・」で始まる偈文。裏面には細かい文字でたくさんの戒名が刻まれている。 反花付き台の正面 中央に施主 遊馬 村中。左側面に念佛講中 若干人。その奥に願主とあり、二名の名前が刻まれていた。 右 庚申塔 寛文3(1663)笠付き角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・羂索持ち二臂。 左手に羂索を持った青面金剛は三面、炎の付いた輪光背を負う。左右に二童子を従え、同じように磐座に立っているようにも見えるが、青面金剛の足元部分は、二童子の磐座と較べるとやや厚いようにも見えて、もしかしたら脇に立つ解説板の言うように邪鬼をふんでいるのかもしれない。 下部に磐座に座る二猿が彫られていた。二匹の猿はそれぞれ右手に御幣を持つ。二童子と二猿の間の空間、右に武刕足立郡、中央に干時寛文三癸卯、左に三月吉日。左の猿の脇に是衆拾四人。猿の下に二鶏を向き合うように浮き彫り。二鶏のすぐ近く、白カビと石の傷もありはっきりしないが、植田谷領 遊馬村か?(この地域ではいくつかの石塔の銘の中で遊馬の「遊」が木遍が付く漢字になっているように見えるが、該当する漢字が見当たらず、とりあえず「遊」を使うことにします) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.05 09:06:09
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