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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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今日は高城寺の観音堂と宿下薬師堂墓地の石仏です。 高城寺観音堂 西区西遊馬217[地図] 高城寺境内の西の一角に新しい観音堂がたっている。10年前こちらを取材した時はたまたま工事中のために、観音堂の周りにあった石仏は広い墓地の北東の塀の前に移動されていた。 観音堂の左手前 地蔵菩薩塔 明和元年(1764)四角い台の上、角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ね、大きな丸彫りの地蔵菩薩立像。 静かな表情で佇むお地蔵様。よほど大切にお世話されてきたのだろう、像は白カビもなく、彫りも細かく残っていて驚くほど美しい。 角柱型の石塔の正面に偈文。左側面には遊馬村 宿東 女中と刻まれていた。 左側面に造立年月日。続いて願主四名の名前が刻まれている。 観音堂の左側、六地蔵と二基の石塔が並んでいた。後ろの塀の向こうは馬宮東小学校の校舎。 小堂の中に丸彫りの六地蔵菩薩塔 文化7(1810)台は新調されているが、石塔、蓮台、像ともによく揃っていておそらく創建時の姿そのままなのだろう。 石塔の正面の銘は左から遊馬村高城禅寺十世代、2番目に造立年月日。3番目は無銘だった。 4番目に「念佛講中」5番目に遊馬村 宿 東間 田向。6番目に世話人、願主。 六体の尊顔はそろって崩れなく、像の彫りもきれいに残っている。江戸時代後期造立の丸彫りの六地蔵塔で、これほど美しい状態を保っているものは多くはないだろう。 六地蔵の小堂の隣 三界万霊塔 元文4(1739)四角い台の上 蓮台付きの角柱型の石塔の正面「三界萬霊等」「塔」のかわりに「等」というのを10年前にここではじめた見たのだが、その後このような銘を結構多くみかけた。これは当て字だが、文政の「政」の偏と旁を縦にしたり、供養の「養」の上下を分けて偏と旁にしたり、江戸時代は文字の遊びが盛んだったのだろうか?下の台の正面中央に施主、両脇に遊馬村中、土屋村中と刻まれていた。 塔の左側面 武州足立郡遊馬村遊馬山(遊は木偏で遊の異体字?) 高城禅寺現住六世智朋叟。 右側面に造立年月日。その横に願主 一誉休圓上座。裏面に願文が刻まれている。 一番奥に 普門品供養塔 享保14(1729)四角い台の上の角柱型の石塔に蓮台に座る聖観音菩薩像。石塔の正面を彫りくぼめた中に「普門品講塔」と刻まれていた。 左手に未敷蓮華をもち右手をつぼみに添える聖観音菩薩。その蓮華から両手、胸あたりの損傷が大きい。像全体から見て頭部がやけに小さくバランスが悪いが、首に補修跡があり、どうやらこちらは後から補われたものらしい。 塔の右側面 武州足立郡植田谷領遊馬村。中央に遊馬山高城五世現住無門禅叟。その左に造立年月日。 左側面 上部に施主とあり、その下に多くの名前が刻まれていた。7×5、最後だけ8名で合計36名になる。さらに勧化とあり、近隣四つの村の名前、最後に當寺旦中。遊馬村をはじめ五つの村と高城寺の檀家衆が力を合わせてこの供養塔を造立したらしい。10年前工事のために墓地奥に避難していた石仏は、そのまま新しい観音堂の周りに戻されていた。 宿下薬師堂墓地 西区西遊馬118[地図] 高城寺の300mほど南、道路右側の保育園の裏に宿下薬師堂の墓地がある。保育園脇の路地を進み駐車場の先を右折して墓地に向かうと、右手のブロック塀のかげに小堂が立っていた 小堂の中 馬頭観音塔 文化12(1815)駒型の石塔の正面に馬頭観音坐像を浮き彫り。右ひざを立てて座る馬頭観音像は珍しい。塔の右側面に造立年月日。左側面に願主 個人名。 逆立った髪の中にくっきりと馬頭。忿怒相二臂の馬頭観音はふっくらと馬口印を結んでいた。 墓地の入口近くに瓦屋根の小堂が立っている。 小堂の中 地蔵菩薩塔 元禄6(1693)2mをこそうかという大型の丸彫りの地蔵菩薩立像。堂々たるお姿だが、右手に持つ錫杖の先が欠けていた。 足元の部分、敷茄子、蓮台から上は見えるが、その下の反花付き台から下の部分は四方を囲まれていて見ることはできない。 蓮台の正面少し右の花弁に植田谷領 遊馬村(遊は木偏)その左に造立年月日。彫りは薄くかろうじて読み取れる。 円い敷茄子にぐるりとひらがなで名前が刻まれていた。ざっと数えて30数名。なかなか大きな女人講だったようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.05 20:10:57
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