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カテゴリ:さいたま市西区の石仏
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今日は三橋6丁目にある養福寺の境外堂である桜堂の石仏です。 養福寺桜堂 西区三橋6-1378[地図] 県道165号線の三橋六丁目交差点の北、庚申塔の立つ交差点を左折して少し進むと右手に桜堂の入口があった。 入口右脇 念仏供養塔 正徳6(1716)二段の台、角柱型の石塔、蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。総高3m近い堂々たるお地蔵様。 そっと目を閉じ静かな表情。欠損も補修跡もなく比較的白カビも少ない大型の丸彫りの地蔵菩薩立像。正徳6年=1716年は享保元年にあたり、今まで見てきたように享保年間に特徴的な大型丸彫り地蔵塔の流れと言えるかもしれない。 角柱型の石塔の正面に「念佛講」その下の反花付き台はぐるりと深いくぼみ穴が穿たれていた。 反花付き台の左側面、くぼみ穴のために銘の上部が欠けている。これほどまでに深いくぼみ穴は今までに見たことがない。右から(武蔵)國足立郡 内野上村。中央に□□村之講中 二十八人。左 (正徳)六天丙申二月吉日。六・丙申から正徳6年と考えられる。 裏面中央に 江戸柳原石屋 源兵衛と刻まれていた。江戸柳原は今の台東区、荒川近く。江戸創成期、江戸城築城や土木工事などのために多くの石工たちが集められていたが、江戸の町作りの完成後は大きな仕事がなくなり石塔、墓石などの石造物作りに移っていったらしい。江戸城の石垣に用いられた石材が残っていたため、江戸では大型の石仏が大量に作られ、河川舟運の発達によって完成品、半完成品をそのまま埼玉など、関東各地に運ぶことができたのだろう。 入口左手に 徳本名号塔 文政5(1822)角柱型の石塔の正面に独特な書体で「南無阿弥陀佛」下部に花押。下の蓮台、敷茄子はともに四角い。 塔の右側面 武州足立郡 内野上村 講中 近村々助力。その下に世話人とあり九名の名前が刻まれていた。 塔の左側面に造立年月日。その横に寛政4(1792)の命日と戒名があり、内野上村施主 妙教と刻まれている。右側面に刻まれた銘「内野上村講中」から、この名号塔は講中によって造立されたものということになると思うのだが、こちらの側面の銘をどう考えたらよいのだろう?墓石を兼ねているのか?さらに下部には並木村とあり六名の名前と、世ハ人 上小村田 藤兵衛と刻まれていた。両側面の銘の内容の関連性がいまひとつよくわからない。 参道左側、名号塔の後ろの小堂の中に六地蔵菩薩塔が並んでいた。こちらは紀年銘が見当たらす造立年は不明だが、石質は固そうな感じがする。 左端の塔の足元の部分に武州足立郡 内野上村とあり二名の名前が刻まれていた。 六地蔵の小堂の右脇、ブロックをバックに二基の石塔が北向きに並んでいる。 左 名号塔 明和6(1769)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「南阿弥陀佛」上部両脇に造立年月日。右下に願主、左下に一名の名前。外枠に講中 廿九人と刻まれていた。 左側面に十数人の俗名、右側面に16の法名。僧俗合わせて29人ということだろうか? 右 地蔵菩薩塔 文化6(1809)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビが多い。光背右脇に造立年月日。左脇に村中善男女と刻まれている。 参道右側、左側の六地蔵と向き合うように小堂が立っている。小堂の中 六地蔵菩薩塔 天明4(1484)舟形光背に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩立像。サイズ形とも揃っているが、一部色が違うのは補修されたものか。 右から2番目の光背に内野上惣邑中、願主 孫七。3番目の光背に造立年月日。4番目に石工飯田新田邑、田中治兵衛と刻まれていた。 参道を進んでゆくと右手に宝篋印塔と大きな角柱型の石塔が並んでいた。 右 宝篋印塔 天保6(1835)屋根型の笠を持つ。大きな基壇、二段の台の上、基礎、塔身ともに蓮台がつく装飾的な江戸時代後期らしい宝篋印塔。基礎の正面に豎者法印恵觀、高僧の墓石だろうか。 その隣 大乗妙典供養塔 安政4(1857)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「大乗妙典一千部供養塔」普通に見るのは「六十六部」だが、納経供養塔で千部となると、これはとんでもない数になる。 塔の左側面 天下泰平 國土安穏。その下に一金壹両 地代。何の地代だろう? 右側面に造立年月日。その下に願主 施主とあり、それぞれの名前が刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2023.12.17 20:17:01
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