1756197 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

私家版 さいたまの石仏

私家版 さいたまの石仏

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Profile

☆いたやま☆

☆いたやま☆

Keyword Search

▼キーワード検索

Category

Free Space

自転車とカメラが趣味で、気軽に写真を撮っています。
お地蔵様や庚申塔などの石仏にはまってしまいました。

さいたま市の石仏探しの参考書として
「石の文化財-浦和の石造物」浦和市教育委員会
「郷土の石佛 写生行脚一期一会」酒井 正

私家版さいたまの石仏のホームページ版は
http://saita-seki.jimdo.com/

2013.11.19 ブログ開設
2014.11.08 10,000アクセス
2015.04.02 20,000アクセス
2015.10.22 50,000アクセス
2016.06.27 100,000アクセス
2017.04.12 200,000アクセス
2018.01.25 300,000アクセス
2018.08.17 400,000アクセス
2019.04.07 500,000アクセス
2019.11.19 600,000アクセス
2020.05.28 700,000アクセス
2020.10.27 800,000アクセス
2021.03.07 900,000アクセス
2021.07.02 1,000,000アクセス
2021.11.28 1,100,000アクセス
2022.03.29 1,200,000アクセス
2022.07.14 1,300,000アクセス
2022.10.28 1,400,000アクセス
2023.03.29 1,500,000アクセス
2023.09.06 1,600,000アクセス
2024.03.12 1.700,000アクセス

Calendar

2024.04.12
XML
ホームページ「私家版さいたまの石仏」はこちら

今日は大成町の石仏を見てみましょう。

八幡自治会館脇 大宮区大成町1-203​[地図]


国道17号線桜木町交差点から250mほど北を左折して西へ進むと八幡神社がある。広い敷地の北の奥の八幡自治会館の脇、交差点の角に小堂が立っていた。


庚申塔 安永9(1780)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「庚申塔」下部両脇に世話人だろうか。二名の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。その下に講中とあり十名の名前。


左側面に武州足立郡 下大成邑。こちらもその下に講中とあり十名の名前が刻まれていた。正面の二名も合わせると講中22名だろうか。


台の正面に 従是 西 與野三十丁 川越三里 道。左側面に 是ヨリ 北 原市二里 上尾二里 道。


右側面は左から 是よ 東 大ミや六丁 岩つき二里 みち。三面合わせて三方向六地名の刻まれた道標になっていた。

普門院 大宮区大成町2-402​[地図]


桜木町交差点から500mほど北の交差点で左折、200mほど先、道路右側に普門院の入口がある。右手前に大きな寺標が立ち、山門までまっすぐに続く参道の両脇に石塔が立っていた。


右 戒壇石 寛延2(1749)正面に「不許葷酒入山門」曹洞宗寺院でよく見られる。左 標石 嘉永7(1854)正面に「大成山道」その下に従是五丁。大成山=普門院で五丁は約500m、南は桜木町、西は大平公園あたりの辻に立っていたものだろうか。参道両脇は駐車場になっていた。東の駐車場は隣接する幼稚園のための駐車場だろうか。西の広い駐車場の南に無縁塚、西には開山堂があり、多くの石仏が並んでいるが、こちらは次回にまとめて見ることにする。


参道を進むと山門左脇の塀の前の小堂の中に六地蔵塔 平成7(1995)が祀られていた。両脇に六地蔵について丁寧な解説板が立っている。


美しく整備された境内に入りすぐ左を見ると、こちらも塀の前に六地蔵塔が並んでいた。それほど古くないようだが一、部顔に損傷があり、表の六地蔵塔の先代にあたるものだろうか?


右手の塀の前には多くの石塔が北向きに並んでいる。左端の小さな石塔は弁財天塔 大正12(1923)だった。


右端 不動明王塔 造立年不明。銘は見当たらないが、上部が大きくせり出したダイナミックな炎の光背に浮き彫りされた不動明王は、独尊の立像でありその石質も硬そうで、江戸時代初期のものではないだろうか?


彫りは細かく力強い。忿怒相の不動明王は右手に剣、左手に羂索を持つが、剣の先は欠け柄の部分だけが残っていた。他には大きな欠損も風化の様子もなく美しい状態を保っている。


その隣 庚申搭 延宝4(1676)江戸時代初期に見られる板碑型三猿庚申塔。三猿の下の部分に12名の名前が刻まれていた。


窓の中、上部に造立年月日。その下に比較的大きな三猿を浮き彫り。肩を寄せ合い正面向きに並んで座る素朴なその姿は味わい深いものがある。見猿の右横の枠部に「大なり」と刻まれていた。


続いて 庚申塔 宝暦6(1756)卍の彫られた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像は風化のために解け始めている。青面金剛は二匹の邪鬼の頭を踏んでいた。


溶けかかった二匹の邪鬼の下の部分。右側の見猿?がわずかに残り、たぶんこれが三猿だろう。ほとんど原型をとどめてはいないが・・・


塔の左側面に造立年月日。右側面は剥落部分が多い。それでも残ったところに 左 □□□□、う□□・・・道とあって、道標が刻まれていたらしい。文字ははっきり見えるがくずし字(草書体?)のためうまく読めないのは情けない。どなたかご教授ください。


その隣 庚申塔 元禄8(1695)美しい形の舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


塔の下部に二鶏、邪鬼、三猿がそろっているが、邪鬼がやけに小さい。ここまで貧弱な邪鬼というのも珍しい。三猿の下の部分、ひらがなと漢字の名前が混在、男女合わせて23名の名前が刻まれていた。


左続いて 不動明王坐像 明和5(1767)角柱型の石塔の上に乗っているが、上下の石の色が明らかに違っている。


火焔の光背の前、剣と羂索を手に磐座に坐す不動明王。彫りは細部まで丁寧。像全体に白カビも欠損もない。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「日本廻國六十六部供養塔」両脇に天下泰平・國土安穏。塔の左側面に武州足立郡大成村、願主 個人名。右側面に造立年月日。石塔としては廻国納経供養塔 明和5(1768)ということになるが、塔の上の不動明王像との関連は定かではない。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.06.07 05:29:21
コメント(0) | コメントを書く
[さいたま市大宮区の石仏] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.