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カテゴリ:さいたま市北区の石仏
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今日は奈良町の石仏を見てみましょう。奈良町は日進町の北、宮原町の西の地域になります。 大宮北高校北交差点角 北区奈良町130[地図]南 大宮北高校の北東、奈良別所通りの一本西の通りの大宮北高北交差点から西に進むと、右手の交差点角に二基の石塔が並んでいた。 右 百ヶ所観音供養塔 文化10(1813)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「奉納秩父西國坂東百箇所供養塔」観音霊場供養塔である。右下に「いわつき道」左下に「ぢおんじ道」台の正面に武州足立郡奈良瀬戸村。 塔の右側面に 西 あきば道、東 阿げをミち。 塔の左側面に 南 よ野ミち。続いて造立年月日。正面のいわつき、慈恩寺は 北だろう。三面あわせて四方向五地名が刻まれた立派な道標になっている。 台の右側面、奥に施主とあり、十一名の名前。 台の左側面にも施主の二名、合わせて施主は十三名か。続いて世話人一名の名前が刻まれていた。 左 馬頭観音塔 明治3(1870)駒型?の石塔の正面、上部に馬頭観音坐像を浮き彫り。その下に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面に施主は個人名。 塔の上部は大きく破損。あとから補われた頭部は坐像の体の部分に比べて明らかにサイズが異なりアンバランス。坐像自体は本来のものと思われ、衣装の様子、馬口印から馬頭観音像であることは間違いない。 観音堂墓地南交差点角 北区奈良町115[地図] 国道16号線の奈良町北交差点から奈良別所通りを北上、約1km先、二つ目の信号交差点を左折、すぐ先の十字路を右折してしばらく進むと右手の交差点の角に二基の石塔が並んでいた。 右 庚申塔 元禄13(1700)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。10年前は小堂の中にあったはずだが、今は小堂は無くなっていた。白カビもほとんどなく美しい状態を保っているのは小堂に守られていたおかげだろうが、今後は風雨にさらされることになるのだろうか。それでもこのようにブロック塀でしっかりしたスペースを確保されているのは恵まれている。これまで、長いあいだ野ざらしにされた多くの石仏を目にしてきた。「石仏を守る」と口にするのは簡単だが、この庚申塔にしても300年以上の長い間、村の人たちがご苦労を重ねて守り続けてきたのだろう。本当にすごいことだと思う。 忿怒相六臂の青面金剛を中心に均整の取れた配置。持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元には上半身型の邪鬼が腕をM字に張って丸い顔で正面を向く。像の右脇「奉造立青面金剛尊像現當成就祈所」左脇に造立年月日。その横に武刕足立郡奈良瀬戸村施主廿四人。 邪鬼の下の磐座の中に正面向きの三猿。その下の部分に二行銘文が見えるがうまく読み取れない。最後が「・・・離苦得楽」となっていて、偈文だろうか。 左 庚申塔 文化10(1813)駒型の石塔の正面「庚申塔」 塔の右側面に造立年月日。左側面中央に「あきば道」下部に奈良瀬戸村 講中廿人と刻まれていた。 観音堂墓地 北区奈良町119[地図] 二基の庚申塔の並ぶ交差点から北へ100mほど、大きな老人ホームの向い、道路右側の住宅の間の路地の先に観音堂墓地がある。入口に六地蔵が並んでいた。 六地蔵菩薩塔 寛延2(1749)三つの台石にそれぞれ二体づつ地蔵菩薩立像が乗っていてそれぞれの地蔵名が刻まれている。 左から2番目のお地蔵様に銘が刻まれていた。光背左脇に造立年月日。 足元の部分に願主、施主各一名の名前が刻まれている。 薬師堂 北区奈良町120-8[地図] 観音堂のすぐ南の交差点から西に進むと薬師堂があった。その前に赤いフェンスに囲まれて石仏が祀られている。 薬師堂の前、南向きに地蔵菩薩塔 享保7(1722)四角い台に反花付き台を重ね、その上に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。やはり享保の堂々たる大地蔵、総高2mを超す。同じフェンスの中にもう一基小さな地蔵菩薩塔が収まっていた。 反花付き台の正面中央に「奉造立」両脇に願主 光善。その下の台の正面には延命地蔵経の偈文。 下の台の両側面にも銘があるが、左側面は脇の小地蔵塔の陰で全体を俯瞰できない。手前の部分。武刕足立郡 奈良瀬戸村 松林寺□□。 左側面中央に造立年月日。左脇にここにも願主 光善と刻まれていた。 台の右側面中央 梵字「ア」の下に光善□□不生位。両脇に享保12年の紀年銘。この地蔵菩薩塔を造立した5年後に亡くなった願主 光善の命日と戒名を後刻したものだろうか。 大地蔵の左脇のフェンスの中に六基の丸彫りの地蔵菩薩塔が東向きに並んでいた。六体と言っても六地蔵と思われるのは右の四基だけで、左の二基はまた別のようだ。 右端の石塔の正面に武州足立郡 奈良瀬戸村とあり、世話人二名の名前。右側面に嘉永元年(1848)の紀年銘。こちらが六地蔵の造立年月日だろう。 2番目の石塔には偈文。3番目の石塔には七名の名前、続いて外助力拾七人。4番目の石塔には八名の名前が刻まれていた。 残りの二基、左端の地蔵菩薩塔は風化が著しく、銘も見当たらず詳細は不明。その右の地蔵菩薩塔は石橋供養塔 享保16(1731)こちらも風化が進み、顔は原型をとどめず像自体も溶けだしている。 敷茄子の下の石塔の正面「石橋供養塔」両脇に造立年月日。周りに施主の名前が刻まれていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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