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すごく平凡な毎日を過ごしています。 本当に心の健康を取り戻してると思います。 反抗期の子どもが2人もいますので、カリカリしますが、ぜんぜん違います。 長男と顕正会で頑張っていた時は、いつ、殴り合いになっても、それ以上の惨事になってもおかしくないぐらいに家の中は殺伐としたどなり声ばかりだったと感じます。 信心は自分が幸せになるため、つまりは、家族の幸せのために頑張っているのですから、それに協力してくれないものすべてに怒りがありました。 夫にも子どもにも、私の必死な思いを知りもしないで、たいした協力もしないで・・・と常にカリカリ不満ばかり・・・ まさに地獄・餓鬼ですね。 がんじがらめになり、しかも、不平不満の塊でした。 この不満・・・普通の生活に対してではないですよ。 顕正会の活動に対してですので、お間違いのないように。 顕正会の活動は、普通の生活を普通に送りながら進めていくことはできないということです。 顕正会の活動は、必ずどこかにしわ寄せがあり、我慢する人が出てくるのです。 会話も、顕正会に関係ないことは話せなくなるのです。 心がズタズタになる活動のどこに正義があると言えるのか・・・ みなさんは大丈夫ですか? 心を誤魔化してませんか? 『化儀抄略拝』(総本山第66世 日達上人猊下 ) 【013】一、夏中(げちゅう)の間勤行を成す人、夏(げ)に入るとは申さざるなり、別行(べつぎょう)の子細候(しさいそうろう)よしを申すなり、案内を申す事は、夏中の間、にら(韮)一もぢ(青葱)を、御前にてたまわらざるは緩怠(かんたい)なるが故なり。 [日達上人略解] 夏とは安居のこと。一夏九十日(四月、五月、六月の三カ月、夏の間)を取り、一切の他事を去り、ただ学問、修行に従事する。別行とは、一般日蓮宗では、夏と称するが、本宗では別行といいて忌みきらった。 案内とは説明のこと。その意味をのべること。にら一もぢとは、韮と葱のこと。緩怠とは、失礼という意。安居の間でも、本宗では、勤行をなします。それは、本宗では、安居は別行としてこれを嫌い、安居に入っているとは申しませんから。 ちょうど安居の期間中に、韮や葱を、御本尊様の前で食べないのは、そういう五辛(韮(たで)、薤(にら)、葱(ねぎ)、蒜(ひる=野びる)、薑(はじかみ))を食べると、口が臭くなって失礼に当りますから、食べないのであります。安居に入ったから食べないというのではありません。 【014】一、信者門徒よリ来る一切の酒をば、当住持(とうじゅうじ)始めらるべし、只(ただ)、月見、二度の花見等計(ばか)り児(ちご)の始めらるるなり、其(そ)の故は三世の諸仏(しょぶつ)高祖(こうそ)開山(かいざん)も当住持の所にもぬけられたる所なるが故に、事に仏法の志(こころざし)を高祖開山日目上人の受け給(たも)う姿なり。 [日達上人略解] 信者も門徒も同じ意味。二度の花見とは春の桜の花見と、秋の菊の花見。信者より御本尊様に御供養になった酒はその寺の住職が、まず頂戴して飲み、それから他の者が飲むのであリます。そのわけは、住職は大聖人様や日目上人様のお代理でありますから。 ただ、秋の月見や、観桜、観菊の宴等においては、稚児(沙弥・小僧)を先としなさい。そのわけは、本宗の伝統として沙弥、小僧の中に、日目上人の再誕がいると言い伝えているから、沙弥、小僧を先として、大聖人、日興上人、日目上人が受けられる姿を、事相に表わすのであります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008年07月26日 22時12分41秒
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