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カテゴリ:顕正会破折
さらに六〇世日開上人は御宝蔵説法において、 「その戒壇堂に安置し奉る大御本尊今現前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山事の寂光土」 と指南されている。近年においては、昭和四七年三月二六日、日達上人が正本堂の意義についての指導会の砌に、 「この本門戒壇の大御本尊安置のところはすなわち事の戒壇である」(大日蓮三一五-二三) と明らかにされたように、本門戒壇の大御本尊まします処が「事の戒壇」なのである。 このことは『日蓮正宗要義』にも、 「三大秘法整足の大本尊が真実の事の法体であるから、そのところ即ち事の戒壇である」(一一三) と教示されている。 そしてさらに、『一期弘法抄』の 「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべき」、 また『三大秘法抄』の 「最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法を申すは是なり」 と示される「戒壇を建立」ということについて、日顕上人は平成五年の虫払大法会において、 「本門の本尊、妙法蓮華経の広宣流布が時至って、正道・正理の上に条件的に具備した時、戒壇を建立するところに、本仏の志し給う『事の戒法』が成就するのであります。すなわち、この一切は御仏意であり、これはさらに、のちの『一期弘法抄』に本門戒壇の建立につき、二祖日興上人に遺命されるところであります。したがって、この戒壇建立は、大聖人の御仏意による終窮究竟の厳然たる御指南であり、いやしくも凡夫や一信徒が知ったかぶりして、軽々に口に入れ、論ずべき法門ではありません。もし、そういうことがあれば、これは本仏のお心を踏みにじる大謗法であります」(大日蓮五六七-四五) と御指南された。 このように宗門における「事の戒壇」義は、終始一貫しており、なんら疑義を差し挟む余地はない。顕正会浅井の基本的な誤りは、大聖人の御書の意を自分勝手に判断するところにあるのであり、これは師弟子の道を違える謗法である。時の法主上人が血脈所持のうえから指南・裁定されたことに信順していくところに日蓮正宗の信仰があるのである。
顕正会が掲げる本尊 昭和六〇年三月一五日号の顕正新聞に次のような記事が掲載されている。 「松本尊能師には私の意をよくお聞き下され、自ら護持されていた大幅の常住御本尊七幅と、日寛上人の御形木御本尊数百幅を私に託して下さった。この七幅の常住御本尊とは、二十八代日詳上人、五十四代日胤上人、五十五代日布上人、五十六代日応上人、六十代日開上人、六十四代日昇上人等の歴代上人御書写の御本尊であり、このうち日布上人の御本尊が高知会館に安置されたのである」 この七幅の本尊について、元顕正会本部職員によれば、 二八代日詳上人の本尊・・・芙蓉会館に安置 五四代日胤上人の本尊・・・法要に使用 五五代日布上人の本尊・・・高知会館・横浜会館に安置 五六代日応上人の本尊・・・顕正寺(顕正会の寺)に安置 六〇代日開上人の本尊・・・顕正会本部に安置 六四代日昇上人の本尊・・・未公表 となっている。しかし、顕正会は近年になって地方に会館を次々と建て、それぞれ本尊を安置しているというが、その本尊の出所はどこなのか。顕正会があれほど創価学会のことを悪しざまにいいながら、こと『ニセ本尊』に関してだけは口を閉ざしている理由はここにある。 顕正会が、たとえどこからか本尊を持ってきても、それは血脈の切れた本尊であり、功徳の法水は一切流れ通わない。功徳どころか大罰を受ける所業である。そもそも御本尊の授受に関する権能は、御法主上人唯一人であることを肝に銘ずべきである。
浅井の予言について 浅井は顕正会の会合で、しきりに「今に地震が起こる」とか、「今に戦争が起こる」とか、「北東アジアが攻めてくる」などと予言めいたことをいい、会員の危機感を煽る。そして予言が外れると幹部に「浅井先生が災いをくい止めた」といわせる。 このようなやり方は、新興宗教の教祖がよく使う手で、自宗に引き入れるための脅(おど)しと騙(だま)しのテクニックにほかならない。こうして無知の会員を次第に誑惑し洗脳していくのである。
顕正会員の勧誘方法 顕正会の勧誘方法は非常識極まりないものである。例えば、学校の卒業者名簿を利用して無分別に電話し、相手と会えた時には、相手が嫌がろうと何時間でもねばって帰ろうとしない。また、夜の駅前などでグループを作り、通行人に声をかけ、相手を喫茶店などに誘い出しては名簿に署名させ、顕正会員とする。相手が顕正会を信じようが信じまいが、住所と名前さえ書かせれば、折伏できたとするのである。(顕正会では平成一三年現在、会員が七〇万人いると公称している) 特に今日、社会的に問題となっていることは、若年層をターゲットにした勧誘や、暴力的勧誘である。学校などで生徒が生徒を勧誘し、教師が注意しても聞かず、それによって退学させられたケースもあり、さらには顕正会員の教師が、学校で生徒に顕正会への入会を強要するなど、各地の教育委員会に多くの相談が寄せられている。また暴力的な事例は枚挙にいとまなく、「入会拒否の男性を監禁」「勧誘を拒否した若者に暴力を加える」などによって逮捕者も出るほどで、新聞などにも報道され、警察には苦情が数多く寄せられている。 また、顕正会では「冨士大石寺顕正会」と自称し、正系門下の「日蓮正宗大石寺」と意図的に紛らわしい名称を使い、会員を惑(まど)わしている。
事の戒壇は天母山に立つべし 顕正会のいう天母山戒壇説は、京都要法寺の方から入ってきた義であって、大石寺にはもともとなかったものである。これについて第六六世日達上人は、 「後世、天母山という説が出てきました。しかし、もっと古い日興上人や日目上人や日時上人等にはその名前はない、全然ない。天母原もなかった。それが、日有上人の晩年の頃に、左京日教という京都要法寺の方の僧侶であった方が、この富士の方を非常に慕われて、又日有上人に御法門を聞いたりして、この富士を慕われたあげく、天母原ということを言った。天母原というのは小さなところではなく、大きい広いという意味をとっておる。富士の麓の広大なる原を天母原という理想の名前に依って、自分等の考えておった理想を表したと思われるのである。その方が本山に来た後に初めて天母原という名前が出てくるのである。天母山というのは、のちには天母山も天母原も混同しておるようでございますけれども、天母山に戒壇を建てようというのは、要法寺系の日辰という人がやはり来られて、この人は大石寺とはあまり付き合いはなかったが、北山本門寺の方へ主におって、そこから天母山へ行ってそこへ戒壇を建てようとした。即ち、戒壇堂でもその時は仏像であり、釈尊の像を立てて、この向こうの岩本の実相寺あたりへ仁王門を建てよう。仁王門といえば仁王さんをお建てするのだから仏像となる。釈迦仏となる。そういう様な理想であった。ところがその人が当時においてなかなかの学者であった。その後、その人の書きものを大石寺の方の人が勉強せられて、その書きものが本山にたくさんある。そういう考えが残って、本山においても後に天母原という名前が大いに出てきたのであって、本当の古い時にはそういう名前はない。富士山に本門寺を建立ということは、一期弘法抄を拝してもわかることであるが、決して天母山という名前はない。ことにまた、天母山ということを言い出した為に、その後に天母山という名前が出てきておる。古来の文献にはないはずである。 この前富士宮の調査においても、古来においてはなかったということを言われておる。いつから天母山ということになったかということも分からない。おそらくそういう僧侶たちが来て、天母山と言い出したことが残った名前ではないかと思うのであります。いずれにしても、我々は戒壇の大御本尊を所持しておる。この富士の大石寺においてお護りしておる。このところこそ、戒壇の根源である。という深い信念を以て信心して頂きたいのである。そこに少しでも、事の戒壇だとか理の戒壇だとかということの、言葉のあやにとらわれて、そして信心を動かす様では、本当の信心とは言えないのであります」(戒壇論六三) と御指南されている。 所詮、顕正会の天母山戒壇説は、本門戒壇の大御本尊から離れた不毛の論にすぎない。
顕 正 会 の 概 要 [創 立] 昭和17年 [創 立 者] 浅井甚兵衛 [代 表 者] 浅井昭衛 [本 尊] 本門戒壇の大御本尊 [経 典] 法華経十巻 [教 典] 日蓮大聖人御書・日興上人・日目上人・日寛上人遺文 [本部所在地] 東京都板橋区常盤台1-14-1 [信 者 数] 410、000 [名称の変遷] 妙信講(昭和17年) 顕正会(昭和57年・宗教法人取得-平成8年11月) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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天母山は国柱会の道場がある謗法汚染の地です。
おまけにゴミ処理場、公衆浴場もあり不浄の地です。 浅井会長は本宗信徒の墓地を臭骨の地と言うくらいですからまさかゴミ処理場や公衆浴場のある不浄の地に本門戒壇を建立したりしないですよね~(笑)。 おまけに天母山の山頂すごく狭く六万坊も建てるような土地無いです。天母山なくなっちゃいます。 それに天母山すごく急だし。 天母山に行って目で見れば浅井会長が行っている事が無理だと良く分かりますよ。 わからない人は浅井教の洗脳者のみ。 (2009年06月07日 17時39分25秒)
raidenさん
え~~ そうなんですかぁ~ 知りませんでしたぁ。 私が聞いたのは、天母山のすそ野に広がるのが大石ヶ原と天生ヶ原だと・・・・ それなら、大石ヶ原はすでに安母山の中だしね。 そんなことを思いましたよ。 (2009年06月08日 00時56分25秒) |