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2010.09.15
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カテゴリ:宗教
一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第904話 「聖マイケルの岩」

 聖マイケル・アポロン・ラインという大規模なレイラインが欧羅巴を斜めに横断してイスラエルのカルメル山に達しているという話は、3-903”聖マイケル山”の回で触れたのですが、その場合、少し西の端を拡張しておく必要があります。

 それが今回のお題でもある”聖マイケルの岩=スケリッグ・マイケル(Skellig Michael )”の話になるのですが、アイルランドの南西、ケリー州の沖合16キロメートルに浮かぶ周囲3キロほどの小さな無人島がスケリッグ・マイケルということになります。

 この無人島には6世紀に初期基督教の石組みの修道院が建てられた(588年説)というあたりまでは分かっているのですが、それ以前の歴史は良く分かっていないようです ・・・ というか、基督教の施設がしばししば”それ以前”の宗教施設を潰してその上に建設されているのはご存じの通り。

 いわゆる聖マイケル・レイライン(西の端を聖マイケル島、東の端を聖マーガレット教会とするレイライン)の場合は、当然といえば当然のように、このスケリッグ・マイケルはカウントされず、聖マイケル・アポロン・ラインを想定するときに、北西の端というか西の起点とされるわけです。

 ただ、素朴な疑問として、聖マイケル・アポロン・ラインほどの壮大なラインを想定するときに、聖マイケル山ならともかく、スケリッヅ・マイケルではショボくないか?という気が私はしていまして、本当の西の端は海底に沈んでいる気がしないでもありません(笑)。

 6世紀に基督教修道院が建てられて以降のスケリッグ・マイケルの歴史は比較的はっきりしているのですが、823年にバイキングが来襲したときも持ちこたえ(というか、バイキング達が奪い去りたくなるほどの金目のものがあったとも思えませんが)、徐々に規模を拡大しながら12世紀までは持ちこたえています。

 しかしながら、雨水を飲料水や生活用水にし、ある程度の食糧も自給して生活していたものの、12世紀に放棄されて無人島となり、16世紀頃から巡礼の場として次第に知られていったようです。

 12世紀頃までは、アイルランドもケルト系の民族によって幾つかの小王国が分裂する状態だったのですが、王位継承騒動を背景に、いわゆるノルマン・コンクエストが1066年から発生し、凄まじく要約すれば、サクソン人の領主にノルマン人の領主が取って代わっただけというか、基本的に支配者階層の入れ替わりだったようです。

 ただし、12世紀中頃にノルマン人の侵入を契機としてヘンリー2世(1133~1189)が軍を率いてアイルランドに上陸し、息子で後に”欠地王”と呼ばれることになるジョン(1167~1216)にアイルランドの支配権を与え、ジョンが”アイルランド卿”を名乗ることでアイルランドはイングランド貴族の領土の一つとでもいった立場になったとも言えます。

 そういった時代背景を考えると、12世紀にスケリッグ・マイケルの修道院などが放棄されたことと、支配者階層の入れ替わりが無縁だったとは考えにくいのですが、なぜ六百年近く維持されてきたスケリッグ・マイケルの宗教施設が放棄されたのかに関して良く分かりませんでした。

 その後、”アイルランド卿”の称号は貴族というよりもイングランド王によって継承され続けていくことになるのですが、イングランドで貴族間の内ゲバが続発したことでアイルランドの実効支配は失われていき、薔薇戦争が終わる頃には、アイルランドはイングランドの支配から完全に脱して、事実上の独立領となってしまいます。

 まあ、それはそれで問題が無いといえば無かったのですが、話が決定的にこじれる端緒となったのが、意外なことに、エリザベス1世(1533~1603)のパパであるヘンリー8世(1491~1547)の離婚問題と言う全く非宗教的な理由で始まったイギリスの宗教改革だったりします。

 国王が離婚して別の女性と結婚したいがために強行した宗教改革は、離婚を認めなかった羅馬カトリック教会などとの政治闘争の様相もみせることになるのですが、イングランド国教会(通常プロテスタントに分類される)が16世紀に成立したことで、羅馬カトリック教会からの直接的な干渉が排除され、イングランド支配における王権が強化されたのは確かです。

 ちなみに、この時、距離的に離れていて実効支配の外に位置していたアイルランドは羅馬カトリックに残留することを選択するのですが、そのため宗教的には仏蘭西や西班牙といった周辺のカトリックを信奉する国と近しい関係になってしまい、それが結果的に、アイルランドの再占領の一つの理由になったのかもしれません。

 思惑がどの辺りにあったのかは定かではありませんが、1536年にヘンリー8世はアイルランドへの再侵入を決行し、1541年にはアイルランドの在地貴族達の支持を得られないまま、”アイルランド卿”から”アイルランド王”を自称するようになるのですが、アイルランド全島の支配が確立するのは、エリザベス1世の死後英国王位を継いだジェームズ1世(1566~1625)の統治下のことになります。

 このウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われることになるのですが、その後もイングランドとアイルランドの間のいざこざは続き、独立闘争など紆余曲折があるのですが、スケリッグ・マイケルに関して言えば、1826年には灯台が建設され、1996年にユネスコの世界産に指定されたこともあってか、観光客を含む巡礼者が増加し、その余波というか結果的に遺跡の損壊が進んだため(これを書いている時点では)、渡航制限が実施されるようになったそうです。

 興味深いのは、修道院は島の山頂(標高240m)近くに建てられているのに、修道士達は垂直に切り立った崖の下に、円錐形に近いドーム状に石を積み上げた独特の形状の小屋というか僧房で暮らしていたことですが、皮肉なことに、修道院の方は礼拝堂の跡が残っている程度で、僧房の方がよほど原型を留めています。

 おそらく、アイルランドの西端のディングル半島にあるガララス礼拝堂のような石組みの礼拝堂(6~9世紀頃に建設されたらしい)と似た礼拝堂の跡がアイルランド西部にあるクローパトリックの頂上でも確認されていることから、それらと似たような建物をスケリッグ・マイケルでも修道院と総称していたと考えていいのではないかと。

 実際、そうした礼拝堂はスケリッグ・マイケルの僧房とも共通した小さな石を組み合わせながら積み上げたもので、技術的に(というかパッと見た目が)共通したものがあるように見えます。

 ちなみに、ガララス礼拝堂は、建物の東側に入り口があって、西側に小さな窓(というか換気口を兼ねた穴)があるだけのシンプルな構造なのですが、春分と秋分の日には礼拝堂の入り口に太陽がまっすぐに差し込み、西の窓に抜けていく構造になっていますから、スケリッグ・マイケルの礼拝堂も同様の構造を踏襲していたと考えられます。

 なお、ガララス礼拝堂の周辺には古代ケルト人が用いていたオガム文字が刻まれた石柱が残っていることから、ガララス礼拝堂やスケリッグ・マイケルの礼拝堂などが何らかのケルトの聖域か遺跡の上に建てられている可能性はかなり高いのではないか?と勘ぐっています。

 ところで、12世紀にスケリッグ・マイケルが放棄された理由として気候変動によって居住に適さなくなったという説があるのですが、10~14世紀にかけては、中世の温暖期(Medieval Warm Period:MWP)と呼ばれる温暖化が進み、欧羅巴が全体的に温暖化していった時期ですから、寒波に追い立てられたのではなく、温暖化で島の降水量が減少して飲料水や生活用水を天水に頼っていた施設が維持できなくなったのかもしれません。

 その一方で、高緯度地域の温暖化は作物栽培に好影響を与えて農業の生産性を向上させ、食糧供給の増加は人口増加に繋がり、海が結氷する範囲も狭くなったことで、バイキングなどの渡航する範囲が広がっていき、バイキング達が加奈陀から北亜米利加にかけて入植するようになったのもこの頃のようです。

 が、14世紀半ばから19世紀半ばにかけては、いわゆる小氷期(Little Ice Age, LIA)と呼ばれる寒冷な期間が続くことになり、急激な寒冷化は農作物の生産量の減少に直結し、飢饉が欧羅巴全域で頻繁に発生するようになり、1315年には150万人規模の餓死者が記録されているようです。

 この時期にアイスランドの人口は半分に減少し、グリーンランドのバイキング植民地は全滅してしまい、加奈陀や北米への渡航を結氷した海が阻むようになり、コロンブス達がバハマ諸島にたどり着く(1492)まで誰も亜米利加大陸には到達していなかったことにされ、西印度諸島は含めてもグリーンランドが新大陸に含まれないことにされているのは御存知の通り(笑)。

 もっとも、欧羅巴の寒冷化は新大陸発見後も続いていて、17世紀半ばには、スイス・アルプスの氷河が増大して、谷筋に広がる農場を飲み込み、村を押し潰しながら低地へと広がっていったのですが、逆に言えば、温暖化で氷河が後退しているという主張も、”12世紀頃の位置に戻っているだけなんじゃないの?”という気がしないでもない。

 また、17~18世紀頃の話で有名なのは、1607年頃からテムズ川やオランダの運河、河川が一冬の間完全に凍結する年が珍しく無くなっていったことですが、1780年の冬にはニューヨーク湾が凍結し、マンハッタンからスタッテンアイランドへ歩いて渡ることが可能だったというのは実話ですから、温暖化の証拠に氷河の退行現象をカウントされてもねえ?という気がしないでもありません。

なお、ここにきて急に、気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、小氷期を「期間中の気温低下が1℃未満に留まる、北半球における弱冷期」であり”世界規模の寒冷化現象ではなかった”とか言い出しているのですが ・・・ 弱冷ねえ?

初出:一夢庵 怪しい話 第3シリーズ 第904話:(2010/09/09)





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Last updated  2010.09.15 00:15:38
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